2010年5月31日月曜日

H小学校・研究授業の「思い出」。

 一昨日、はるばる北日本まで行き、公立・H小学校の教育研究会に参加した。これは公開授業を全校的に行う実践である。もう20年も前からこのような実践が行われてきたという。
 よくよく考えると、公開授業とは奇妙な現象である。生きた人間たちを、彼らより年長の人間たちが「観察」の対象にする。要は小学生版「動物園」なのだ。よく思想家は「動物園」を近代の特徴のように語る。それは観察される客体と観察する主体とを明確に二分割するからだ。中世的な「見世物小屋」と違い、「真面目」な「研究」の対象と取り扱われる。
 ミシェル・フーコーは〈見る―見られる〉関係性のうちに権力作用を見出した。とすれば、この授業研究会というのは大人の側が小学生たちを「監視」する権力作用以外の何物でもない。小4のクラスを「見学」する中でそれに思い至り、思わず気持ちが悪くなったのを覚えている。
 この小学校の児童たちは、興味深いことにこれだけ多くの大人たち(下手をすると、クラス内の児童と同じくらいの人数。しかも大半は「先生たち」である)に「見られて」いながら、普段通りの姿を見せてくれる。ある子は机に突っ伏し、私語し、鼻に人差し指を突っ込む(そこまで「観察」してしまう私は、すっかりゾウの檻の前に立って見ている動物園の客である)。巧妙に訓練を受け、餌付けされた「動物」たちの姿を思い出す。とすれば教員は調教師なのか。フーコーが「よきディシプリン(しつけ)はよき調教である」と述べた通りだ。
 授業が終わった後の分科会という「反省会」も非常に「面白い」。先ほどの授業中の「~~君」「~~さん」の言動が問題にされ、それに対する教員の今後の「教育」方針が語られる。この場において、生きた人間の処遇が語られる。語られた生徒は、そんな話し合いの存在を知る由もない。おまけにコメントするのはもう二度とこの小学校に来ない人々なのである。そんな人間たちによって、小学生たちは勝手に今後の生き方を決めつけられてしまうのだ。これを権力作用と呼ばずに何と呼ぶべきなのか。 

追記

●教員の語りに耳を傾けなければ、評価されることのない小学校の退屈さ。それこそ鼻でもほじるしかやることはない。対話は成立せず(1対30の営みは「対話」ではない)、教員の語りは児童の耳から抜けていく。
●私は研究授業や公開授業では、児童・生徒を観察する人を「観察」するのが趣味である。観察する側は、意外に無防備なので「素」が出るのだ。これはツタヤにおいてDVDを探す人を見る「楽しさ」と同じである。いかがわしいDVDを真剣に見つめる人を見るのはなかなかに愉快だ。
●教員たちの軽々しい「皆が仲良く過ごしました」という言説に気持ちの悪さを感じる。この一言には恐るべき「圧力」がかかっているのではないか。「仲間」という言葉や「学びの共同体」という言葉。これらの言葉のネガティブな部分に、本当に目がいっているのか? 「仲間」を構成するのはピア・プレッシャーでもある。つまり同調圧力。少しでも異なる「他者」を排斥する働きが裏にはある。その恐ろしさを知らずに軽々しく「皆」とか「仲間」とかいう言葉を使うべきではない。そう思う。
●教室の後ろの置かれた飼育小屋。いくつも並んだその姿が、私には複数の「棺桶」に見えた。飼育される動物たちは、はじめは可愛がってもみくちゃにされ、飽きられれば餌もやり忘れられるようになり、やがては知らないうちに「死んで」しまう。教員は死ぬことを予期した上でその死体を「デス・エデュケーション」の「教材」にする。そう、はじめから飼育動物たちは「死ぬ」ことを想定されているのである。ペットであればそうではない。
 恐るべきは学校である。どんな存在も「教材」にされてしまう。動物も、その辺にいる地域住民も、駅のホームレスも、すべてが「教材化」。この権力性についても、考察をしていきたい。

生徒によって「受けられた授業」とは何か?~『うる星やつら』的論考。~

学校空間は、生徒集団によって自分たちの生活文脈の中に再構成される。学校の各部署の名前は学校側のものと生徒によって命名されたものの間に落差がある。例えば、我が母校の寮では「みどじゅう」という場所が存在した。集会場の前にある、緑色の絨毯のひかれた空間のことをいう。空間と同じく、生徒たちは学校での「時間」も、自分たちの相応しい文脈のもとに「再構成」する。
 退屈な授業時間。一斉授業の名の下、聞いても理解しがたい授業が教授される。アニメ『うる星やつら』では担任の温泉先生(♨マーク)はまさに英語の教師であり、退屈な文法の授業を行う。どんなに授業の仕方が下手であろうと、生徒はそれに従わなければならない(評価権は温泉先生にある)。それゆえ、諸星あたるを始めとするキャラクターたちはいかにも退屈そうに彼の授業に「付き合う」。その付き合い方が、授業の「再構成」である。あたるはテキストを目隠しにして「早弁」(ハヤベン)をする。教員が黒板に向かう間に、こっそりと授業を抜け出す。そこまでしなくても、生徒たちはあるいは寝、あるいは「内職」をし、紙将棋もすれば紙飛行機も飛ばし、私語も行う(初期のアニメではラムがあたるに抱きついたまま授業が受けられる)。 彼らにとって教員の語りはBGM。音が強くなるときだけ聞き耳を立てる。
 それでも授業は苦痛だ。それゆえ退屈な日常(学校的日常)では「祝祭」が求められ、ラムやその関係者により授業がめちゃくちゃにされることが心待ちにされる(そうでなければ、こんなにトラブルやドタバタしかない学校に通い続ける義理はない)。 「祝祭」性を求めるがゆえに、どんな学校にも「七不思議」などの怪談話が創作される。これらは学校という退屈な日常を、楽しくすごすために作られた物語なのである。ストーリーテラーの周りには、学校的日常に退屈した生徒たちが集まり、耳を傾ける。『平家物語』を語った琵琶法師のような現代版・吟遊詩人なのである。
 学校は「学校」として機能しない。それは生徒によって「学校」は再構成され、自分たちに都合のいいものに作り替えられるからである。そのために、教員によって考えられた「学校」観と、生徒によって見られた「学校」観は常に相違するのである。教員にとって「問題」な生徒は、必ずしも問題児ではない。逆もしかりで、教員側からの「優等生」と、生徒にとっての「優等生」は評価観点がずれている。
 教員によってなされる授業・提供される学校空間は、生徒にとって過ごしやすい必然性はない。それゆえ、生徒たちは適当に遊び、「内職」し、「祝祭」性を求める中で学校的日常をやり過ごし、卒業して行くのだ。それが悪いとはいえない。だいたい、中高生にとっての学校の「思い出」の大部分は友人関係や部活動に集約される。そしてこの二つにはあまり教員側の意図が入り込まないのだ(学習指導要領では「友人関係」も「部活動」も規定はない)。

追記

●私語や手紙回し、早弁によって再構成された授業。再構成でもしなければ苦痛で仕方がない時間。生徒にとって授業を受けることは、いわば「労働」なのである。では、ボーッと過ごされた時間・机の上でなんとなくやり過ごした学校での時間は、生徒の生育史のうえにおいて「役立った」と言えるのであろうか? 内田樹も『下流志向』で「不快貨幣」の話を出している。

2010年5月28日金曜日

歌のもつ恐ろしさ

「時の流れに身をまかせ/あなたの色に染められ…」。テレサ=テンの「時の流れに身をまかせ」。昭和の名曲である。
 小さい頃、美空ひばりの「川の流れのように」とごっちゃにして覚えていた。恥をかいた記憶がある。
 さて、小さい頃、引用した箇所の前段の歌詞が印象深く、この歌のテーマのように感じていた。〈時の流れの速さ〉を歌ったものと思っていたが、実際重要なのは後段の「あなたの色に染められ」であったのだ。つまり人生経験の結果、ようやく「恋愛の奥深さ」を歌ったものであったことに気づいたのだ。
 歌は恐ろしい(ゲーテも言っている)。口に出したり文字に書いたりすると生々しいものを気軽に受けとも「消費」してしまうことができる。
 映画『魔女の宅急便』の主題歌「ルージュの伝言」も歌われた状況は18禁の状況であるが、小学生も歌ってしまっている(駆け落ち先の歌なのだ)。
 歌は気軽に性的なものを歌ってしまう。皆それを気軽に消費する。あたりまえの状況のようだが、その恐ろしさに気づくべきである。ゲーテの意識を身につけるべきだ。

2010年5月23日日曜日

努力教、あるいは努力「狂」。

 なかなか生きづらい世の中である。そう感じるのには理由がある。この世の中は常に「努力」を要求するためだ。いわば「努力教」(あるいは努力シンドローム)に形づくられているようである。
 努力しないことも、大事なのではないだろうか。昨年以来の勝間vs香山論争は、結局の所、「頑張る」「努力する」ことへの違和感を人々が潜在的に求めるようになったことの結果ではないだろうか。

 努力やガンバリズムを否定して生きていきたい。学習においてもそうである。「勉強」という言葉は「強いて勉める」と読む。それこそ「努力」シンドロームの現れた言葉だ。

 よく人間の尊厳として過酷な状況を努力して乗り越えた体験が語られる。会社再建の「美談」も、基本的には資金繰りに昼夜走り回った「努力」の結果として語られる。しかし努力とはそれほど美しいものなのだろうか? 「ほどほどに過ごす」のは駄目なのか? 皆が「頑張る」社会は病んでいる社会である。

 現在の状態で誰も満足してくれない。これは文明を進める要素ではあるのだろうが、『成長の限界』(ローマ・クラブ)以降の社会ではそろそろ「努力の終焉」を語ってもいいのではなかろうか。
 苅谷剛彦はインセンティブ・デバイドの存在を「嘆いた」。所得下位層に生まれた子どもは学ぶ「意欲」や努力する「意欲」が少ないという「格差」があると主張したのだ。けれど、考えてみれば努力するという「意欲」に格差が出るということは、「努力」の終焉に一部の人間が気づき始めた良い「兆候」とも言えるのではないか。
 ほどほどのところで、ほどほどの人生を送る。これでいいんじゃないだろうか。確かに「階層の固定」と言って批判する人もいるだろうが、本田由紀のいう「ハイパー・メリトクラシー」下で要求されるスキルについて考えてほしい。常に自らの向上を目指し、「さわやかに」努力し続けるスキル。本田はハイパーメリトクラシーが「努力し続ける」姿勢を要求することを描くことで社会批判をする。そうである以上、「ほどほど」(昔の宮台真司は「まったり」と言った)の生き方は、社会改革の一つのファクターであるように思われる。
 ニートでも、フリーターでも人は生きていける。何も努力するだけが人生ではない。

努力シンドロームの彼方に。

 久々に落ち込んだ。もう1週間になる。私は自分が不要だ、と感じるときガクッと落ち込むことが分かった。サークルにしても、ボランティアにしても、「あ、俺いなくても大丈夫かもしれない」と感じたとたんに落ち込む。今回もそんな文脈の中で落ち込んだ。
 宮台真司は『14歳からの社会学』において「代替可能性」というキーワードを提示した。自分の存在の代替不可能性を感じられない限り、生きている実感を失ってしまう、という文脈で語られていた。要は、「自分でなく、他の誰かでも構わないのではないか」という思いのことである。いまの私にも当てはまる。「俺なんて、いなくてもいいんじゃないか」と感じるとき、私・藤本研一という人間の「代替可能性」を感じてしまう。
 この現象は再帰性(ギデンズ)に特徴づけられた近代社会特有のものである。再帰性を英語で書くとreflexivity。絶えず自分自身を「振り返り」(=reflective)、自分の行為の結果について考察をしていく態度のこと。
 「自分とは何者か?」を、近代社会では誰も教えてくれない。前近代の共同体社会では「〜〜さん宅の息子さん」というアイデンティティがあった。生き方にしても、「まあ、親父と同じことをして一生を過ごすのだろう」という自明性があった。いまはそれが無い。だからこそ、絶えず自らを「振り返」り、自らを作り替えていくことが必要となった。
 この「振り返り」は、非常に面倒なプロセスである。中学生時代、何か行事の度に「反省会」が行われたことを思い出す。「もっと早く準備をしていればもっとよい企画になったと思います」という意見表明が連発される会議室。子どもながらに生産性のなさを感じていた。再帰性とは、要はこういうことではないか。面白くもなく単調な「反省会」を自らのうちで何度も何度も行う作業。そのうち「自分は何者か」判明する時もあるが、基本的にはただ「振り返る」だけで終ってしまうのではないだろうか。それこそ「反省会」を「努力して」行うことが必要なのだ。
 自分に必要なスキルを、自分で計画して身につける。それだけでなく、「自分は何者か?」「自分は何をしたいのか?」常に考える必要のある近代社会。「努力」し続けないと生きれないように巧妙にプログラミングされた社会である。まして都市に生活していると、日常的に「努力しない」存在の比喩としてホームレスの存在が目に入る。いやでも「努力」が要求される。けれど「努力」は楽ではない。にもかかわらず努力しないと地位やアイデンティティの獲得が手に入れられない。
 本当に生きにくい社会である。
 考えてみれば、「俺はもうダメだ」という状態を「振り返り」の結果として受け止めるのも、ある意味で自分のアイデンティティを形づくったこととなる。自ら「ダメ人間」を名乗るのだ。「ダメ人間」を名乗るとき、とりあえず「自分は何者か?」という問いにはきちんと答えがである。けれど私の自尊心はその状態で満足させてくれはしない。
 「ダメ人間」で満足できないのなら、結局自分自身で「努力」して自分を「向上」させる必要が出てくる。…ああ、努力しないと自分のアイデンティティを獲得できないのか。努力しないと「代替不可能性」に気づくこともできず、この「落ち込んだ」状態からの離脱も図れない。
 いまの状態からの解決方法は見えている。なのにその方法である「努力」をしたくはない。…この「救われない」状態から、どのように抜け出すか? 「努力」して方法を探し出すことにしよう(トートロジーである)。

星に願いを。

 「星に願いを」とはいうが、星は無生物である。願いをかけても叶えてくれるわけはない。にもかかわらず、人は星に願いをかけ続けてきた。このメカニズムは一体何なのだろうか?
 何かに「願い」をかけるとき、人は自らの願望を再確認する。潜在意識の中に「これをやりたい」という思いを上書きしていく。「これをやりたい」思いが潜在意識にあるならば、無意識のうちにそれに関する情報収集や行動を行い始める。「家を安く買いたい」人には、山のようにあるコンビニの雑誌棚の中から「1000万円台で買えるマンション特集」というキーフレーズが無意識的に眼の中に飛び込んでくる。
 神社の賽銭箱の向こうの空間、チベット仏教のマンダラ、キリスト教におけるマリア像。これらに願いをかけ、実際に叶うとしよう。このメカニズムは、人間が自らの願望を再確認する結果として「願いを叶える」という実践が起きてしまうだけなのではないだろうか。

 自己成就的予言というものがある。「社会状況についてのある思い込みが、人びとがそれを信じそれに基づいて行動することで、結果として実現し、当初の予想を正当化するような社会的プロセスのこと」である(『岩波小辞典 社会学』92頁)。予言されたことを無意識的に成就する方向に人が動いてしまうという状態のことだ。落ちこぼれというレッテルを貼られた子どもは「実際に落ちこぼれらしいふるまいを実現してしまう」のである。「星に願いを」かけることは、自己成就的予言とも言える。自分で自分の「予言」として「願い」をかけ、それに自分で応えようとしているのだ。
 こう考えるとき、「星に願いを」かける行為は自分自身に「願い」をかける行為であると言える。結局、願いをかけても叶えるのは自分でしかないということを表しているだけなのである。

2010年5月17日月曜日

たかが受験ごときで…

 修論で書く関係上、受験勉強法の本を本屋であさっている。
 勉強法の本のタイトルや中身は色々と面白い。たかが受験ごときで「科学的勉強法」や「脳科学に基づいた」学習法が語られる。「孤独に打ち勝つ力をつけよ」とアドバイスされ、「死ぬ気でやれ」と訴えかけられる。

 受験生当時、私はこれらの本を購入し、読み込み、そして必死に勉強をした。けれど大学を卒業した今から思えば、「たかが受験に、なぜここまで熱心にやる必要があったのだろうか」と疑問を感じる。

 「東大脳を作る」という言葉や、受験合格のための「食育」本。どっかの塾や予備校のヨイショ本(宣伝本)に怪しげな記憶法の本。これらを見て、受験生が踊らされているように感じられてしまう。

 勉強の仕方くらい、自分で決めさせてほしい。自分でやらせてほしい。山本哲士の名言「ほっといてくれ!」はこの状況でも有効である。

 そんな風に今の私なら思うが、これは受験を終えた立場だからこそ言えることなのだろうか。学習参考書や受験勉強の「仕方」について書かれた本を目にするたび、受験生がものすごく気の毒に感じられるのである。

「制度化」される読書行為。

 池袋のジュンク堂書店に行った。小学生向けの学習参考書の棚の隣に、児童書の棚があった。小学生の男の子が一人、立ち読みをしていた。あとは保護者のみが本を探している。横から見ていた私は、小学生の読書が「教育」に取り囲まれているように感じた。
 古来、読書が悪であった時代がある。それゆえに、読書が娯楽であった。
 現在「子どもに読ませたい本」一覧のように、読書が教育に入り込み「制度化」されている。
 
 もっとも、この傾向は明治末期から起きていた。夏目漱石の小説が良家の子女に「読ませたい本」になった時からだ。読ませても、「大人」や「親」たちに無害だ、と感じるがゆえに「読ませたい本」になったのだ。

 現在の子どもの悲劇の一つは、そんな制度化された無害な本しか与えられないところにあるだろう。
 『ズッコケ三人組』や『ハリー・ポッター』で夏休みの読書感想文を書く小学生は排斥をされる。それは「読ませたい」本ではないからだ。

マイノリティ論。

 昨夜、明治通り沿いのマクドナルドで(珍しく)勉強していた。席に座り、延々と本に向かい続ける。斜め前の席に、「日本語」と書かれたテキストを勉強する一団がいた。左横の席にも、「日本語検定」の教科書をもった若者が座っている。アジア出身の、おそらくはニューカマーの人々だろう。文化現象として見て、興味深いことだった。
 彼らは何故ここで勉強するのだろう? それもラフな格好で。おそらくは日本国内での「マイノリティ」を自認するがゆえに、相互扶助し合うことをお互いに要求するからであろうか。
 マイノリティは孤立すると、おそろしく弱い。「社会」から切り離され、絶望した感覚(アノミー、とデュルケムは言った)に陥れられている。それに対処するには「かたまる」(団結とはあえて言わない)ことである。
 
 社会的弱者であるマイノリティが「かたまる」のを見ると、マジョリティは恐怖を感じる。「朝鮮学校」という存在への「無償化」に日本人が反対したのも、マイノリティが「かたまっている」状態への恐れであるからだろう。
 マイノリティは「かたまる」が故にマジョリティからは脅威であるのだ。それゆえ、先の朝鮮学校の「無償化」論争のとき同様に、露骨な差別意識をなんだかんだ理屈をつけて合理化する。けれどマジョリティはマイノリティが何故「かたまる」のかを考えようとしない。もとはといえば自分たちマジョリティがマイノリティたちに「かたま」らないと生きていけないようにしていることに気付かないのだ。

2010年5月16日日曜日

「教育化」される社会。



 現在は教育が産業になる時代。あらゆることが教育に結びつけられる。例えば中学受験。昨年のプリジデント・ファミリーでは「父親力」なるものが要求されている。父親として子どもを適切に褒めたり叱ったりする力のことを言うらしい。

 現在、個人のあらゆるエネルギーが教育的価値の実現のために使役させられる時代になっているように思われる。

 カントは確かに〈人間は人間に教育されなければ、人間になれない〉と言った。それゆえ、親は子どものために/教師は生徒のためにひたすら自己犠牲的に教育に徹することが美談とされている。

 城山三郎の小説『素直な戦士たち』を思い出す。子どもを東大に入れることを夢見る女性が、そのためだけに結婚・出産し、徹底的に「東大に入れる」ために教育を行う。そのために徹して自己犠牲。「願掛け」として化粧を絶ち、子どもの教材には金を惜しまない母親像。これ、子どもからすると相当な負担である。親がそこまで「自分のため」にしてくれるのを見ていると、押しつぶされるほどのプレッシャーを感じる。


 昨年話題となった『東大合格生のノートはかならず美しい』(太田あや)には、「家族力」で合格した受験生の姿がドキュメントされている。タイトルもズバリ「『家族力』があったから東大に合格できました」。「合格へ向け家族一丸となる」という言葉が紙面に踊る。車いすに載った祖父も両親も、子どもの東大合格をあらゆる点でサポートする。家族全員の記念写真に写った笑顔。それを見て、急に怖くなった。もしこの受験生が不合格だった場合、家族ははたして成立しているのか、と感じたのだ。現在の『素直な戦士』であるように感じた。


 子どもの教育のために一生懸命働く親の存在。これは美談である。教育熱心な人は賞賛されるばかりで非難されることはない。しかし、この姿は同時に、教育のために人々が犠牲にされている姿の表れでもある。よく考えると悲しい光景だ。子どもの教育を行うために、人々から「自分」がなくなっていく。シングルマザーの出てくるドラマにも「あなたが居なければ再婚できるのに」と子どもにつぶやくシーンが印象深い。

 『子どもからの自立』(伊藤雅子)という本にも、この考えがあらわれている。子どもの教育に熱心な母親という「母性賛美」。社会は「母性賛美」をすることで、母親たちに子どもの教育のために自己犠牲をすることを強制している。そのため「母性賛美に陥れられることなく、追い込まれた道を自分の選択だとたぶらかされることなく、女の向上心や生真面目が巧妙に搦(から)めとられる危険を見ぬいて、自分の人生を生きる」(ⅷ頁)ことが必要なのだと筆者は語る。


 魯迅の言葉にこのようなものがある。〈若者の育成のために血を垂らすことは、我が身を削ることになったとしても楽しいものだ〉。「教育の持つ輝き」を信じていた頃、この言葉を感動して私は受け止めていた。しかし、今の私にはマゾ的行動のように思ってしまう。


 教員も親も、一般的に優しい。ゆえに軽々しく他人(子ども)の犠牲/他人の手段になってしまう。この傾向は正しいのだろうか?

 M・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタンティズムの教義が人々に働くことを「人生の目的」と規定するようになった、と説明する。人々のあらゆるエネルギーや時間が「労働」にかけられていく。「世俗内禁欲」を訴え、人々が欲望の充足をすることなくひたすら労働に意識をかけるようになる。いまの社会はすべてが教育に結び付けられ、教育的価値の実現のため簡単に自己犠牲が説かれる。皆が「美談」と感じる。…冷静に考えると、おかしなことではなかろうか。


 教育が重要だと言えば言うほど、あらゆるエネルギーが教育に一本化される。エネルギーの提供側はいつまでたっても自由になれず、教育される側はあらゆる教育者の「期待」に応える必要がある。私も言われてきた。「いまの日本社会の問題の解決は君たちにかかっている」。今まで教育されてきたのはそのためかよ。いささかの苛立ちを感じてしまう。

 こんな私もやがては学校教員になるだろうし(院生が生活していく一番手っ取り早い方法)、結婚したら子どもを持つことにもなるだろう。そのときに、「子どもの教育が大切だ」と考え過ぎると、「自分」の生活が無くなってしまうような気がしてならない。けれど、誰もそれを真面目に考えようとしない。私のような発言は「クレイジー」として片付けられてしまうのが、いまの日本の悲しい点である。


2010年5月9日日曜日

私は旅に出るんです、
だからおねがい、カバンを買って。
四角く硬いトランクで
上に座って良いものを。
夢と期待を閉じ込めて
列車に乗って出かけたい。
片道キップをポケットに
陽の出るほうへと一人旅。

小3の結婚

副都心・池袋駅の看板広告。興味深いので撮影。

小説のテーマに恋愛や結婚は何度となく取り上げられる。
現在(というかしばらく前から)はゲームで結婚は擬似経験される。

2010年5月8日土曜日

隣家の窓。

 ヒッチコックの『裏窓』(原題 Rear Window)を見ている。カメラマンの住む家の窓から見える殺人(のような)劇。カメラマンは窓から絶えず「容疑者」を観察し続け、犯行の内容を推理し続ける。自分の行動が実は誰かに観察されているかもしれないということがこの映画のテーマである。自分のプライベートが他者に見られていることを意識すると、何も出来なくなる。近代社会は「儀礼的無関心」(アーヴィング・ゴッフマン)を行うのがルール。「相互行為の同じ物理的場面に居合わす人たちが、互いに相手の存在に気づいていることを、相手に脅したり過度になれなれしい態度をとらずに相手に明示する過程」(ギデンズ『社会学』用語解説)。それが「儀礼的無関心」。他者に過剰に干渉せず「見て見ぬ振り」をすることである。誰かに見張られていると感じると、我々は何も行うことが出来ない。ましてプライベートなことを。

 寺山修司の映画『田園に死す』を見ると、前近代社会において覗きが日常的であったことがよくわかる。障子の穴から他人を見つめる隣人たち。同質性を要求される中世的共同体では、相互に監視しあい、目立ったことができないようになっている。

 近代の都市的生活では、「隣は何を/する人ぞ」。隣人と一切会わないまま生活することができる。

 もし隣人がこちらの行動を覗き見たり盗聴したりしていると想像するならば、もはや生活することはできない。それゆえ窓にはカーテンを閉め、鍵は二重にし、防音性を考慮した家作りをするのだろう。

 私のアパートは窓が一つしかない上に、暑さがこもるため、夏にはとても過ごせない場所である。自然と下着に近い格好で家の中を暮らすことになる。この姿が他者に覗かれていると想像するととても生活できない。

 近代社会では意外なことに、「人は覗きをしないものだ」という性善説に基づいて人々は暮らしているのである。前近代社会では障子の隙間・板戸の間から人々の生活(特に夜の生活)が日常的に覗かれている恐れがあった。

 そういえばフーコーは「見るー見られる」関係に権力構造を見いだした。この映画での絶対的な権力者は一方的に覗きを行うカメラマンの男である。あとの者は彼に「見られる」客体にすぎない。

 映画のクライマックス。覗いていた相手であるセールスマンが覗き主の家にやってくる。目撃者である彼を殺そうとして。これは「見るー見られる」関係が存在することに怒る近代人の比喩であろう。

学校で文章の書き方は教えられているのか?


 「学校」が作られたのは何のためか? 『子どもはもういない』の著者ニール・ポーストマンは〈読み書き能力が人々に要求されるようになったためだ〉、と説明する。それまで、子どもは「小さな大人」として扱われており、子どもと大人を分けるものは殆どなかった(アリエス『子供の誕生』)。けれども「印刷技術の発展を経て、書物を読むことが一定の階層や特定の職業従事者のみの問題でなくなった今、すべての民衆が文字の世界に参入することが重要な課題となってくる」(今井康雄編『教育思想史』)。読み書きというスキルの習得には時間がかかる。それゆえに「学校」の中に子どもを囲い込み、文字を習得させる時間と場所を用意したのだ。

 前に大学のあるクラスメイトのレポートを見せてもらったことがある。酷い出来だった。段落わけがなされておらず、引用の書き方もどこからが引用の始まりか、よく分からない。全体を読んでも意味が不明瞭。「悪文」の典型であった。読む気が失せてしまう。

 大学生のレポートが悲惨な出来であるのを見ると、文字を書くことができても「文章を書く」技術は習得されていないようである。しかもそのクラスメイトは早稲田大学生。早稲田合格者ですらそのレベルなら、他の大学生については推して量るべきである。

 読み書き能力を子どもに習得させるための学校であるのに、なぜか「文章」を書くことすらできない生徒を産み出している。それは何故か? 簡単に言ってしまえば、書き方を教えるはずの学校で、文章の書き方が教えられていないのだ。これでは「学校」が何のためにあるのか分からなくなってしまう。何のために子どもを実社会から隔離してまで学校教育を行っているのであろうか。

 大正デモクラシーが華やかなりし頃、日本では「新教育」という運動が起きた。児童中心主義の教育実践を呼びかける行動である。その中心人物・芦田恵之助(あしだえのすけ)が広めたのが生活綴方(せいかつつづりかた)運動だ。これは子どもが自らの「生活についての認識や感情を綴方(作文)に表現させ、そのことを、主として学級集団のなかで検討しあうことによって主体的な行き方を探求させ」る実践のことだ(『教育学用語辞典 第四版』学文社)。芦田から広まった生活綴方運動の最高到達地点が『山びこ学校』(無着成恭)である。無着成恭が自分の受け持つ小学生たちに書かせた作文を本にまとめたもの。有名な「雪」という詩は非常に情感豊かだ(「雪がコンコン降る。/人間は/その下で暮らしているのです」)。他にも村で流行していた「おひかり様」というカルトに対し小学生たちが批判する文章も掲載されている。『山びこ学校』には詩や随筆ばかりか社会に対する批評までも納められているのだ。無着の実践では「文章を書く」ことが小学生に習得されていた。

 翻って今日の学校を見ると、「文章を書く」ことは本当に果たされているのだろうか。書き方を教えるはずの学校で文章の書き方が教えられていないなら、誰が教えると言うのだろうか。いま一度、生活綴方の伝統の復権が必要であるかもしれない。

2010年5月6日木曜日

里見実『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』太郎次郎社エディタス、2010


 この本を私は、長野に向かうバスのなかで読んでいた。高速道路から見える緑の風景。ブラジル生まれの教育学者パウロ・フレイレが活躍したのも、こんな景色の中であろうか。残念ながらブラジルに行ったことがないので詳しくは分からないが。


 本書はフレイレ(1921-1997)の著書『被抑圧者の教育学』の解説書である。フレイレの教育思想は一体何をテーマにしたものであったかを、著者の里見は検討していく。


 フレイレは教員の一方的な教えこみによる教育を「預金型教育」といって批判をする。預金型教育は人を受動的にしていくからだ。タイトルにあるように、「被抑圧者」にさせられるのが「預金型教育」である。

 そうではなく、教員ー生徒、あるいは生徒どうしの対話による「問題化型教育」が必要であるとフレイレは主張した。彼の「識字教育」は「問題化型教育」の実践である。実際にブラジルの農村をまわり、フレイレは「問題化型教育」を行う。それが当局に批判され、ついには亡命を余儀なくされてしまうのであるが。


 フレイレが危険を冒してまで実践したこのねらいは何か? それは抑圧を受けてきたものが、教育を通じ、自分自身の主体者となることである。

「『読み手』として世界に向きあうこと、それをフレイレは『意識化』とも呼んでいます。(…)フレイレにとっては、識字は『意識化』と同義でした」(154頁)。

 つまり、フレイレの識字教育は世界を読み取る主体に人々を変えていく行為であった。これは受動的な存在から、主体的に世界に関わる存在へと転換することを意味する。「被抑圧者」が、教育によって「人間化」するのだ。「人間化、フレイレの教育学の、これが根幹です」(49頁)と里見はまとめる。フレイレにとっては人間化のために教育が重要なのだ。

 興味深いのは、フレイレが書いた次の記述である。「被抑圧者のみが、自分を自由にすることによって、抑圧者をも自由にすることができるのだ。階級としての抑圧者は、他者はもちろん、自分をすら、自由にすることができない」(85頁)。被抑圧者が「人間化」され、自由になるとき、はじめて抑圧者自身も自由になる。人が人を抑圧するということも「非人間化」されているのである。

 フレイレの本を読むと、あらためて教育の意義や「輝き」を感じられる気がする。

2010年5月4日火曜日

子守り学級に学んだ子どもの明治44年(1911)・卒業式答辞(旧開智小学校(長野県・松本市)に置かれていた資料)。

私共は不幸にして学校へもあがらず子守にまいりましたが先生やご主人のおかげ様で文字や子供のしつけ方などおしへていただき今日めんじょうをいただくことになりましてまことにうれしく思ひます。こののちは一そうべんきょうして御恩にむくひたいと思います。

明治四十四年三月二十五日

子守生徒総代

(原文は旧かなづかいが使用されている)


コメント

 当時、生活の都合上、子守りをしつつ学んだ一群の生徒たちがいた。写真を見ると、一つの教室に座机を並べ、赤ん坊を背負った子どもたちが座っていた。そんな状況で授業を行う(読み書きなどについてを)。教育のもつ、輝きを見るようだ。

 不覚にも、泣きそうになった。自分はイリイチ流の脱学校論者であるはずなのに。

2010年5月2日日曜日

もう少し出してほしい

どうせ寄付するならもう少し出してほしい。

2010年5月1日土曜日

2ちゃんねるの「【受かるためには】内職スレッド【手段を選ばぬ】」を読む。~ディスクールをもとにしての「内職」研究~

●内職技法について。


色つきで透明のファイルか下敷きで隠す。


同じ科目なら堂々とできる


これ、和田秀樹の本にも同様の内容があげられていた。


小さめの単語カードを片手で持って見てる。

縦にして左手で持って親指で右から左へめくる。想像付くだろうか。

先生によっては全然バレない。


ある意味、内職には「スリルを味わう」ために行う「遊び」の要素がある。


日本史から倫理に変更したので日本史の授業が要らなくなった俺。

だから、教師に素直に理由を話して内職を公認してもらった。


融通の利く先生はいいね、やっぱり。


 内職の必要性を語り、許可をもらう生徒もいる。興味深いのは、この申し出を許可する教員にとって、自らの授業の必要性のなさを自覚している、という点である。授業を聴いても合格しないということを教員が理解している。これは学校教育の限界を教員自体が示す行為ではないか。



長文授業と日本史意外は内職。席が一番前なんでバレバレだけど。注意してきたりする教師の場合は睡眠してます


 内職において、席の配置は重要な要素である。


体育以外全部内職。

 

 内職できない科目は「体育」である。


体育の時間での内職の仕方なんかを。

1.体操服の下にでも単語帳か何か忍ばせておいて

 合間をぬってこっそりやる。でもクラスメイトに引かれることうけあい。


2.皆と外(or体育館)へ行くフリをしてこっそり引き返して勉強。

 体育以外でも(学校行事とか)使えます。


3.体育の授業が終ってから学校へ。


とかが考えられますかね。ちなみに僕自信は

体育がストレス解消になるので参加してます。

まあ23は内職じゃなくてサボりですね・・・・


 もはや「内職をする」ことが大前提になり、「どうやったらできるか」に意識が移行している段階である。

 この1に似たようなことを合唱の練習の中でやっている私のクラスメイトがいた。それは単語カードを片手に歌詞カードを手にする、というものである。


古典の時間にマドンナ古文or実況中継

さあ、どれだけ教師の自尊心を傷つけるのか?


 授業力の低い教員は、確かに存在する。その教員の語りに耳を傾けるよりも、質のいい参考書で学習をするほうが遥かに容易に学習は進む。「実況中継」シリーズの存在は大きいのである。

 参考書の方が分かりやすい。ならば授業を聴く必要はないではないか。そのような認識のされ方をしている。


パターン別内職の仕方を考えてみました。というか僕がよくやってる奴です。


・アホみたいな授業だが前の方なので注意されてしまう。

関係のない参考書などが見えていたら先生も気分悪いから怒ります。

じゃあどうするか。プリントにしてしまえばよいのです。

あらかじめコンビニとかのコピー機でその日でする分量のページを

コピーしておき、内職したい授業になればそのプリントを持っていって

さも配布されたプリントのように取り扱えばいい。

コピーする時間と結構な金額がかかりますが、確実性は高いです。

ノーととっているフリをすればなお良し。

プリントの紙質はなるだけ学校のプリントと同じ質のやつがいいでしょう。


 内職の「知恵」の共有は多く行われている。

 他には次のようなもの。


内職にオススメの参考書。

・単語帳等ミニサイズ。

基本ですよね。

・暗記系サブノート

内職する暗記科目と授業の科目を合わせるとばれません。

世界史の授業中に詳説世界史ノート等。

・参考書のコピー

プリントがメインの授業にオススメ。


 ほかにも工夫があげられている。


ノートを使って内職したらまずばれない。


 内職を成立させるための他の技。


内職する授業は予習する。

当てられても即答すれば文句はあまり言われない。


英語はテキストを遣って、解説するだけなので内職にもってこい。

しかも、ライティングの狂死、回答解説に書いてあるようなことしか言わない。

あげく「答えを配ると授業の意味がなくなるから、回答解説は学期末まで配らない」だと。


回答解説以上の授業ができねえことを認めてやがる。救いようがない。



 教員が支配する空間に「抵抗する」手段としての内職技法である。「バレない」という側面が非常に重視されている。大部分の内職は「バレない」ということに価値が置かれている。そのため、本当に勉強が進む方法ではなく、「気休め」になることが多い。

 なお、筆者の場合、一番容易に内職ができたのはすでに学習した内容を問題演習することであった。数学の時間にも現代文の時間にも日本史の問題集をやっていたのが高三の二学期である。


・ヤバイ!内職がバレた!場合。

1.信頼できる、ないし嫌われるとマズイ先生。担任。

融通が利く先生なら問題なし。怒られる様なら素直に謝って

しばらくの間はやめときましょう。マークされているでしょうし。


2.どうしようもないゴミ教師、嫌われても平気な教師。

喧嘩しなさい。ド派手に。「お前の授業なんか聞いてられるかカス」

という風にきつく言ってやるともう次から内職ばれても素通りです。

しつこく注意していてもその都度言い返せばしばらくすれば言ってこなくなるでしょう。

まあいい先生にそういうことをするのは良心が痛むのでやめときましょう。

ろくな授業ができないくせに口だけデカイ教師に効果的。

僕は今現在3人にこの手法を用いて内職を堂々としています。

クラスの視線が気になる位の度胸しかないならそもそも内職なんかしない方がいいです。


 ここまで開き直ることができるなら楽である。ただ、ここまでする生徒はどれくらいいるのだろうか。


漏れは一番前の席で堂々と内職してるが注意された事はないなぁ。

でも授業後は職員室まで質問とかに行ってご機嫌とり(?)をします

 

 内職「後」の対応の仕方も存在する。


俺も体育以外は全部内職。

うちの教師陣はなかなか理解があって、内職してても全く注意してこない。

学校には内職しに行ってるようなもんです。


 教員集団内での認識の違い。内職に「理解がある」教員集団も存在する。



授業を難しくしてくれって頼みに行ったら、

君に合わせると他の子はついてこれないから、

内職しなさいってむしろ勧められたよ・・・

今では教科書も開かずに問題集解いてる。

最初は私立なんだからなんとかしてくれよ、って思ったけど、

内職の方が楽でいいな・・・寝てても怒られないし。


 一斉授業ゆえ、授業について来れない生徒・授業が簡単すぎる生徒に対応するためには、内職の許容以外に方法がないのかもしれない。

 なお、この記入者はその後このように記述している。


現国と古典の二人の先生両方だけど、

ほんとに感謝してるよ。

おかげで最近成績また上がり始めた。

普通に授業なんか受けて時とかは、

周りがDQN過ぎてノイローゼになりそうだったしな。

まあ、許可されたのは前から仲良かったからっていうのもあるけどな。


 内職をすることで「成績が上がる」という状況が起きている。


・国語現文・古文・漢文の全部がつまらんから内職or仮眠

・数学基礎理解の部分は分かりやすいので聞くが、生徒に問題を解かせる(黒板で)時は内職。

・地歴地理の先生は理解暗記出来るように説明してくれるので聞く

・理科文転。二教科ともに不要なので内職。地学を独学。

・英語一年坊時代の文法授業はしっかり受ける。今では全部内職。


 教科によって、また授業の進行状況によって、内職をする/しないは自発的に選択される。


漏れの高校の世界史は本格的にカスだよ。なんか要点らしきプリント1枚配って、あとは教師の演説オナニー授業。

例えるとあれだな。英語のリスニングCDみたいな感じ。

速読英単語のCDについてくる英文だけのやつを見ながら、ひたすらCDが流れてるって感じ。

地理の先生は漏れによくしてくれるから好きだな。交通の分野が苦手なんですが。って言ったらプリント作ってきてくれたし


「カス」な教員への当てつけ、としての内職も存在するようである。

 非常に面白い記述もあった。


今日英語の時間にモリモリ世界史の内職をしてたら

見つかって当てられてしまい、

教師「あらー、○○さんひょっとして

今見てるの世界史の図表?」とか言われた。

席後ろから二番目なのに良く分かったな・・・。

さらにその教師は笑みを浮かべながら

「私ね、エリザベス女王に似てるって言われるのよー」

ときたもんだ。思わず

「むしろヴィクトリア女王に似てます」と返して

クラスの失笑を買ってしまった。スレ違いなのでsage


 次の会話が印象的である。


149 名前: 大学への名無しさん 投稿日: 02/11/08 21:29 ID:B7k0nViW

>>143

学校教諭と予備校講師を比べるのはおかしいだろ。

予備校講師の仕事は大学に合格させることだけど、

教諭の本来の仕事はそうではない。


153 名前: 大学への名無しさん 投稿日: 02/11/08 21:40 ID:CG2q7ADw

>>149

最終的にはそのいいわけになるんだよね教師って。

結局何もできないのに勉強の邪魔してるだけじゃん


154 名前: 大学への名無しさん 投稿日: 02/11/08 21:45 ID:Xx08eHy2

>>153 勉強の邪魔してる

内職が正しい勉強のスタイルだ!

ってことか、それは(w


155 名前: 大学への名無しさん 投稿日: 02/11/08 21:47 ID:1zlEjYz8

>>153

学校の授業のやりかたに不満があるのなら辞めればいい。

高校は義務教育じゃない。


 内職が「正しい勉強のスタイル」というのは非常に面白い。実際、筆者もその認識にいたった。「使えない」授業が多い高校。そこから私は「自発的に勉強しないと大学にも受からず、自分の夢を叶えることもできない」ことを知った。内職することが自分の学びを成立させることだ、と気づいたのである。

 さて、次の内容に移ろう。どうも、内職の前提として学校の授業と大学受験とが乖離しているということがあげられそうである。


200 名前: キチガイ凶師断固粉砕! EmJ/22m2oE 投稿日: 02/11/08 23:40 ID:Yl/DWsge

>>194

確かに、凶師に同情する点はあるな。

しかし、生徒にいい大学に言って欲しいと思っているのなら内職くらいさせろよ!


02 名前: 大学への名無しさん 投稿日: 02/11/08 23:43 ID:EVVxkCFo

>>200

それはいえてる。

ウチの化学教師は

「化学選択者以外は各自自習してよい。ただし、他人に迷惑をかけるな」

と言っている。

実際、私語は注意するが、あとは寝てても何してても文句を言われない。

全範囲終わったと言うこともあるだろうが、これぐらい余裕のある教師ってイイ


 柔軟な対応の出来る教員が、生徒の間で喜ばれるようである。では、教員の側からみた「内職像」や、内職を嫌う「学級委員タイプ」の人間にとって、内職はどのように見えているのだろうか? そのあたりの調査が必要だ。


引用元:http://school.2ch.net/kouri/kako/1036/10360/1036062824.html