ちょうどいま連載中の『GTO』でも、この問題を扱っている。
もともと公立学校は親が子どもを使役・労役するのを防ぐために作られた側面がある。つまり親が虐待をする前提で、学校は作られたのである。
いま親に過度の期待をしすぎているのかもしれない。その風潮を正す意味でも、今回の親権制限への政策は画期的といえるだろう。
教育学/社会学ネタメインです。「子どもを不幸にする一番確実な方法は何か、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ」(ルソー)
ちょうどいま連載中の『GTO』でも、この問題を扱っている。
もともと公立学校は親が子どもを使役・労役するのを防ぐために作られた側面がある。つまり親が虐待をする前提で、学校は作られたのである。
いま親に過度の期待をしすぎているのかもしれない。その風潮を正す意味でも、今回の親権制限への政策は画期的といえるだろう。
今日、本屋で<できる子・できない子>という説明の仕方を目にした。どうやら勝ち組・負け組と同じようなくくりらしい。親に恐怖心を与え、早期教育に走らせる魂胆だ。
人間を出来る・出来ないや勝ち・負けで見ること、私は嫌いだ。
われわれの基本的な考えは、次のとおりである。平等な社会は、経済と政治の改革を通じて造り出すべきものであり、教育の主たる役割は、そのようにして造り出された社会を維持することにある。(53頁)
自民党が「再配分=既得権益温存」などという看板で再生可能ですか。百パーセントあり得ない。再生するとすれば、「再配分=既得権益剥し」は当然としたうえで、再配分が「自立の支援」なのか「依存の奨励」なのかを厳しく吟味する以外にあり得ない。(83頁、宮台の発言)
『シャドウ・ワーク』第6章後半
12月10日に提出した卒論。そのラストに、私は次のように書いた。
今回、卒論執筆のなかでイリッチ思想について様々な文献に目を通してきた。その作業のなかで、イリッチは「人間の復権」を形を変えて伝えようとしていたのではないか、と感じるようになった。
例えば消費者という言葉。ただ消費だけを行う者という意味だ。人間を消費者と生産者に分けるのではない。本来、人間は生産も消費もどちらも行ってきた存在である。それを「生産者」「消費者」に分けることは人間を軽視することだ。
教育も同じだ。本来、教育を受ける主体と教育する主体は分かれていなかったはずだ。大人が子どもを教えるとき、子どもから大人は何かを学んでいた。本来、教育とは相互依存的なものだったのだ(イリッチの相互親和、つまりconvivial)。それを「教育を授ける者=教師」、「教育される者=生徒」の関係に人間を貶めてしまった。それが「制度」のもつ問題点である。
Convivialな生き方。これをイリッチは提唱した。相互親和、つまり人間どうしが助け合って生きる姿をイメージしている。
イリッチは脱学校化の必要性を訴えた。それは本来的な教育が、制度化された「学校」では実現できていなかったからだ。脱学校化を図ることで、「人間の復権」を行おうとしたのだ。
このように私は書いた。今回扱う範囲も、「人間の復興」をイリッチが言葉を変えて示しているように思える。
イリッチはかつて女性も家計のために働いていたことを示す。《シャドウ・ワーク》ではなく、「ワーク」そのものだったのだ。自分たちの生活に必要な物は自分たちで作り上げた。例えば毛織物、例えば建築など。イリッチ用語でいう、自立・自存(要は自給自足のようなこと)を意味するサブシステンス(生存維持的)が行われていたのである。そこに、賃労働で人を働かせ商品を生産するという資本主義の仕組みが入ってきた。その結果、女性が生活に必要なものを直接作り出すということが減り、かわりに夫の賃労働をサポートし、子どもを教育するという《シャドウ・ワーク》が押し付けられるようになってしまったのだ。女性が自立自存的な生活の基盤から外されてしまったのだ。「賃金を稼ぐ者とそれに依存する者より構成される19世紀の市民的家庭が、生活の自立・自存を中心とする生産=消費の場としての家にとってかわった」(235頁)のである。
冒頭の私の文章でいえば、女性の「人間生命が小さくされる」現象が起きたのである。平塚らいてうは「女性は太陽であった」と青鞜社を作った際に語った。文明が進むにつれて、かつて太陽だった女性は、まさに影(シャドウ)に追い込まれてしまったのである。
イリッチは続ける。「専門的職業はつねにそのサーヴィスへの依存の必要を前提とするものだが、そうした必要を専門的職業に可能にさせるものはすべて、対応する〈シャドウ・ワーク〉を顧客にたいしてきわめて効果的に押しつけることになる。こうした無能力化を推進する専門的職業の典型例は、医療科学者と教育社である」(235~236頁)と。これも冒頭の私の文をもとに解釈したい。文明が進むにつれ、自分で考えなくても「制度」や「サーヴィス」が答えを示してくれるようになる。例えばツタヤにある厖大なCD。この中に自分にあった歌がある。そう考えるとき、人は自ら音楽をつくり出すことをしなくなり、CDという制度に依存してしまうことになる。本来、人間は誰でも音楽をつくり出すことが出来たはずなのに。イリッチはそのことを「〈シャドウ・ワーク〉の創出に従事しているのは、今日のエリートたちである」と皮肉る。システムエンジニア、OSの開発、塾産業の興隆も消費者が「自らつくり出す」力を弱めてしまう。
イリッチは人間の自立・自存を奪うことを「自分自身を破滅させる行為」(239頁)と呼ぶ。ゆえに「産業社会とはその犠牲者なしには済まされない社会であ」(同)り、そのことが「生活の自立・自存の基盤を経済の影法師の姿へと変化させる」(240頁)のだ。
いまこそ、自立・自存というサブシステンスを取り戻し、本来偉大である人間生命の可能性に立ち返るべきではないか。イリッチがそう叫んでいるような気がしてならない。
前の日曜日、高田馬場で『スローメディスン』の出版記念シンポジウムが行われた。出版記念のシンポジウムに行くのは、初めてである。作者2人の話の中に、著作の裏話が現れる。本を作る過程が見えて、なかなか面白かった。
スローメディスンとは、要は「オルタナティブ医療」(代替医療)ということ。あるいは「ホリスティック医療」ということである。西洋医学だけでなく、針やお灸・漢方などの東洋医学も復興すべきだ、また気功・スピリチュアル的治療も認めていこう、という内容である。
オルタナティブという言葉を聞くと、私の血が騒ぐ。私の専門のオルタナティブ教育を思い起こすためである。話を聞けば聴くほど、私の専門分野との共通点が浮かび上がってきた。
オルタナティブ医療もオルタナティブ教育も、メインストリームに対するものとして立ち現れてきた。オルタナティブ医療の方は西洋医学、オルタナティブ教育の方は「学校」教育。西洋医学も「学校」教育も、「それ以外は駄目」という圧力のもとに「それ以外のもの」を否定してきた。例えば針灸、例えばフリースクール。「切り捨て」をしてきたわけである。
けれど、原点に帰らなければならない。医療は人の治療をすることが目的だ。その目的を達成するためなら、西洋医療以外を使ってもいいではないか。同様に、真に子どものためになるのなら学校以外で教育を行ってもいいではないか。
シンポジウムの質疑応答の際、疑問を感じた点がある。代替医療を押し進めたとき、例えば「手かざしで病を治します、その費用は100万円です」ということを主張するカルト宗教への対応である。講師2人の意見は、そこで割れた。
辻信一は「手かざし、つまり気功で病を治す人々はいる。だからそういう人々を排除することがあってはならない」と語った。一理ある。本当に手かざしで治療できる人が現にいるからだ。問題はそんな能力がないにも関わらず「手かざしで治す」と言い張るカルトをどうするか、という点だ。けれど辻はその可能性を言及していなかった。辻に違和感を感じる。
上野圭一は「宗教的行為と治療行為は分けなければならない」と語る。そして、純粋な治療行為に対しては「代替医療」と認めていくべきだと主張した。宗教的な部分については代替医療と認めない方が良いと指摘する。その際、治療行為の費用が他と比較して正当な金額かを考えていく必要があると語った。「同業者団体が自然発生的に作られ、その内部規定が出来ていく必要がありますね」とまとめていた。つまり、「このような治療(手かざし等)には、これくらいの金額にしましょう」という内部規定だ。この上野の説明には納得できた。
辻・上野両氏の話を聴いていて、次のようなケースを思いついた。成功率10%の手術(つまり西洋医療)に100万を出す人は、成功率10%の「手かざし療法」(オルタナティブ医療)に100万を出すかどうか。成功率ではどちらも同じだ。けれど、手かざしに100万を出すのは「インチキではないか」との疑惑がどうしても残る。何故、私はこう感じてしまうのか、よく理由が分からない。
辻と上野の見解の相違は、オルタナティブ教育を考える際にも有効である。いま、「学校」教育以外のオルタナティブ教育を、「学校」同様に認めていく方向に政策が変わったとする。その結果、ヤマギシ会やオウムが作ったような胡散臭い教育機関も認めていく方向になったとする。戸塚ヨットスクールも当然「学校」同様に認められるだろう。そうなることは本当に良いことなのか? 「何でもあり」という状況が現れることは、本当に子どもの教育に役立つのだろうか。
教育機関が「何でもあり」になるとき、上野が語る「同業者団体」の存在価値が高まってくるように思える。子どもや保護者が教育機関を選択する際の指標とすることができるからだ。上野のいう「同業者団体」として、いまフリースクールは「フリースクール全国ネットワーク」という組織をもっている(厳密には、他に「日本フリースクール協会」と「日本オルタナティブスクール協会」がある)。この組織に入るには「子ども中心の学び」を行っているか否かなど、細かな点のチェックが行われている。教育機関を自由に選択できるようになったとき、同業者団体の存在が、選択に安心感を与えるであろう。同業者団体に必ず所属しなければならない、ということはない(それはイリッチでいう「価値の制度化」にあたる)。選択する人がいる限り、同業者とは全く違う教育理念を持つ教育機関はいくらでもあっていい(一部の人に有効という観点から、私は戸塚ヨットスクールにも一定の評価を与えている)。
追記
「職業的な医者への依存の構造が、私たち一人ひとりの心のなかにできあがってしまった。子どもが熱を出したら、自分で手を打つことなしに近くの病院に駆けこむ。昭和30年代までは、病院出産と自宅出産が半々だったのが、それを境いにだんだん病院化してくる」(111頁、上野の発言)とあった。
この文を読んでいて、イリッチの『脱病院化社会』という本を思い出した。未読なので、読んでみたい。そう思うのである。
追記2
オルタナティブ教育も、ただ「フリースクール性」を担保するよりも、「何でもあり」で「自分が自分で学ぶ」「自分を教育する」自発性の視点を失ってはいけない、ということだろうか。こういったフリースクールの「フリースクール性」についての考察を行っていくことが必要である。
追記3
上野・辻の話を聞き、代替医療やオルタナティブ教育の「基準を立てる」というよりも、代替医療やオルタナティブ教育全般を認めていき、それぞれが自発的に同業者団体をつくっていくことが必要である、ということを学んだ。
もとから、私の教育学的主張は学校外の学び舎をさらに普及させることである。例えばフリースクール、例えば「子どもの居場所」。それ故、私はフリースクール全国ネットワークというNPO団体のボランティアを週1でやらせていただいている。
私が教育実習で行った八千代中学校はド田舎の中学校。ヘルメット・タスキをつけ、生徒は自転車で通学する。逸脱する者はあまりいない。生徒をしばる教員の圧力の強い所であった。
こういうことがあった。男子生徒更衣室から制汗スプレーがみつかり、担任が生徒に「こんなものを持ってきてはいけないだろう」と叱っていた。そのシーンを私は少し離れた所から黙ってみていたのだが、非常に不思議な気持ちになった。その教員の話を聞いていても、「どうして制汗スプレーを持ってきてはいけないのか」という理由の説明にはなっていない。理不尽な叱り方である。おそらく、その教員の側にしてみれば本当に「こんなものを持ってきてはいけない」のであろう。中学生だった頃には存在しないものだったのだから。けれど時代は日々進む。現在、高校や大学で運動をする人たちの間で制汗スプレーをしないことの方が「お前、それはないだろう」と言われることが多い。自分の体臭を気にしないことは《非礼》であると伝わってしまうのだ。
まさに社会学でいう「権力」関係が働いていたことに気づく。「隠れたカリキュラム」として、中学生は教員権力に従うということを内面化されていくのだ。
教育実習、気づけば終っていた。「学校」や「教師」という存在が生徒を支配する関係が存在していることに改めて気づき、「ああ、やはり学校外の学び舎がさらに普及することが必要なんだな」という考えに至った。八千代中学校の「不登校」・「教室外登校」の生徒数は、6名(総生徒数208名)である。およそ3%の生徒は「学校があわない」ということを無言のうちに示している。
「学校」や「教師」が大好きな生徒がいるのと同様に、それらが大嫌いな生徒がいるのは当然である。その子に対し、無理やりでも「学校へ来い」と言い続けるのは酷であろう。学校が「学校」である限り、どれだけ努力をしようとも「学校」を好きになれない生徒は必ずいる。ならば学校外の学び舎(フリースクールなど)をさらに普及させることが必要だ[1]。
しかし、「学校」の持つ「気持ち悪さ」を教育実習のなかで幾つも感じながらも、生徒と触れ合うことはものすごく楽しかった。S君という生徒と、放課後の無人の図書室で日本の歴史のロマンを語り合ったことは未だに鮮明に頭に残っている。
「学校」という制度のなかで、いかに生徒と人間的つながりを築けるか。これが大切なのではないだろうか。
[1] もう一つの考え方として、ボーイスカウトなどの「ノンフォーマル教育」活動を押し進め、学校外にも子どもが育つ場所を提供するというものがある。私の実習校でも、ボーイスカウトや地域のサッカークラブに参加している生徒が一定数いた。
学校の存在自体が、生徒の自主性を奪うことはあるのではないか。
「学校」という土俵でいくら自主性を発揮する教育ができたとしても、それが社会でも使える「自主性」である必然性はどこにもないのである。