2009年2月27日金曜日

近代

書評・山本政男『ヨーロッパ「近代」の終焉』(講談社現代新書、1992年)
本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)

 文字の洪水の中から「近代」や「ポストモダン」という単語が目に飛び込んでくるようになった。公教育という「近代」の営みについて研究している者として、ある意味あるべき姿なのかもしれない。
 


 ヨーロッパの「近代」は、人類の歴史のなかでかつて見なかったような激動の時期であったが、それだけに、光と蔭の対照も明確であった。その「近代」の光と蔭は、これまで述べてきたように、あるていど時間的な順序をもっていたことがわかる。すなわち、十六・十七・十八世紀を「近代」の光の部分だとすれば、蔭の部分は、まさに十九世紀ということになろう。もちろん、これもヨーロッパの中で多少のずれがあることは言うまでもない。だが、このずれも十九世紀の中期ごろにはほぼ足並みが揃ってくる。そして、ちょうどこの時期に、日本は西洋世界に向けて門戸を開くのである。
 ということは、当初の日本が理念とした近代ヨーロッパとは、じつは蔭の部分のそれではなかったのかという想いが湧いてくる。(山本1992)

1992年に山本が書いている点がすごい。

増田れい子『看護 ベッドサイドの光景』(岩波新書、1996年)

増田れい子『看護 ベッドサイドの光景』(岩波新書、1996年)

60頁
日本人というのは、マイナスのものをマイナスのままで引き受けちゃう。マイナスを、プラスに変える方法はいくらでもあるんだけど…。

84頁
同じ課題に立ち向かう仲間がいるということが、厚い壁を超えるときの不可欠の要件だと言う。

125頁
「看護っていうのは、患者さんとかかわるなかで患者さんに教わりながら育つ技術だと私は思います。おかげさまで、看護婦をさせてもらっております、これが、ほんとうの気持ちですね。ですから患者さんありがとう、家族の方いろいろ教えていただいてありがとうございます……と、ひとへの感謝につながっていきます。看護っていう仕事は、感謝の仕事だと思っております」

→教育学にもつながる考え方である。

156頁
忍耐する強い母より自然体でいこう、痛いときは痛い、つらいときはつらい、と。だから産んだあと、ああビール飲みたいの気分でした。

178頁
(子どもの親について)こどものイヤがることは、必要なことでもしない。
 入院したこどものことでお母さん方がいちばん神経質になる点は、病気をなおすことよりも、勉強のおくれです。そっちの心配でイライラなさる。病気なっても病気でいられないのが、いまのこどもたちなのかもしれません」

236頁
看護とは、人間を人間らしくいかし、また人間らしい死を可能とする人間の仕事である。

中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社現代新書、1967年

中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社現代新書、1967年

47頁
実際、日本人は仲間といっしょにグループでいるとき、他の人びとに対して実に冷たい態度をとる。

78頁
学歴で一律に個人の能力を判定するということは能力主義というよりも反対に能力平等主義である。なぜならば、学歴で能力が違うということは、誰でも在学した一定年数分だけ能力をもつということになるから、個人の能力差を無視した考えである。

104頁
どんな社会でも、すべての人が上に行くということは不可能だ。そして社会には、大学を出た人が必要であると同様に、中学校卒の人も必要なのだ。しかし、日本の「タテ」の上向きの運動の激しい社会では、「下積み」という言葉に含まれているように、下層にとどまるということは、非常に心理的な負担となる。なぜならば、上へのルートがあればあるだけに、下にいるということは、競争に負けた者、あるいは没落者であるという含みが入ってくるからである。

181頁
日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである。

2009年2月25日水曜日

佐々木健一『美学への招待』(中公新書、2004年)

佐々木健一『美学への招待』(中公新書、2004年)

あるアーティストがこれはアートだと言えば、それがいかに異様な、これまで藝術やアートとされてきたものとは一致しないものであっても、それをアートではないとする根拠はない、ということになります。(68頁)

われわれの経験のなかで、何らかの意味で直接体験と呼びうるものが最初にくるケースはほとんどない、と言えるでしょう。われわれを取り囲んでいる文化環境のなかでは、複製の存在が圧倒的なヴォリュームをもっています。それはわれわれの文化環境が、テクノロジーによって形成され、そのテクノロジーが複製を増殖させているからです。世界については、99%の情報はテレビや新聞からやってきます。藝術については、まず画集を開いて名画を知り、ラジオやCDで音楽を聴きます。複製を否定することは、文化に触れることを拒絶するに等しいでしょう。(81頁)
→たしかに、わたしたちは読む前から『坊っちゃん』のストーリーを知っている。場合によってはシャーロック=ホームズの犯人やトリックすら知っている。

自由であるとき、われわれは怠惰になりがちです。(90頁)

163頁「藝術史を識らなければ、藝術は分からない」

新作しか上演されなかったギリシャ演劇。

「人間を超える」ということは、人間中心主義(藤本注 近代の考え方のこと)を清算し、虚心に宇宙のなかでの人間の位置を問い直すことにほかなりません。さしあたりは、われわれ人間が自然の一部でもあることを認識することであり、ひいては、人間以上に偉大なものが存在することをわきまえることです。それが美学と結びつくのは、美がそのようなものだからです。(中略)いま、「人間を超える」美学としてわたくしが考えているのは、藝術美よりも自然の美です。藝術美でさえも、それは計画して得られるものではなく、卓抜な仕事への報奨として与えられる恵みでした。人間の力は美に届かないのです。大自然の美に触れるとき、われわれは自らの矮小さを認め、それに愉悦を覚えます。無限に広がる大洋に向かい合い、高山の威容に触れるとき、誰でもそのことを体験します。美学は美のこの性格と、その体験における効果を語らなかればなりません。(222〜223頁)

日本的海外感

異国としての海外から、気軽に行ける場所としての海外、しかも「比較される海外」となっている。

単に「海外だから行きたい」でなく、「あそこよりもここの国がいい」と比較される存在になっている。

ポスト週刊誌の時代

現在、週刊誌低迷の時代を迎えている。週刊新潮のノリは無料の2ちゃんねるに取って代わられたようだ。

ポスト週刊新潮やポスト週刊ポスト時代を考えていく必要がある。

「ポスト週刊ポスト」といいたいだけではないか、との指摘はしないでいただきたい。

2009年2月23日月曜日

吉永良正『「複雑系」とは何か』

吉永良正『「複雑系」とは何か』(講談社現代新書、1996)

38頁
(複雑系は)「全体は部分の総和以上である」という性質をもつがゆえに、これまでの科学の方法では攻略できないというわけだ。

244頁
複雑系が真に問うているのは、「世界を見ることを学び直すこと」なのである。

橋爪大三郎『政治の教室』

橋爪大三郎『政治の教室』(PHP新書、2001)
25頁
物事を決めるという行為には、「現実をつくり出す」というはたらきがある。決断しなければ、現実は生まれない。

27頁
政治とは、「ある範囲の人びと全員を拘束してしまうようなことがらを決めること」である。

84頁
すべての法は国民にとって恩恵であるはずなのです。

90頁
私が民主主義を支持するのは、それがもっとも強力な正当性を持つシステムだからです。すべての人びとが、「この決定は自分たちの決定である」と革新できるメカニズムになっている。自分の決めたことに文句を言う人はいないでしょう。だから正当性はゆるがない。

戦前の天皇大権から→アメリカ大権に戦後、代わった。
133頁
「日米安保条約は、日本にとって、憲法にも匹敵する位置を占めているといっていい。この条約がなければ、’アメリカ大権→憲法→人民’という図式は成り立たない。その図式が成り立たなければ日本国憲法は成り立たず、日本という国家も成り立たない。それが敗戦の意味であり、戦後日本の現実です。」

144頁
「思いやり予算」とは、日本が「わが国を防衛するためにいてください」ということで米軍を雇い、傭兵化するための予算だと言ってもいい。

154頁
民主主義の意思決定は、多数派が少数派を押し切るものだから、必ず自分の意見を拒絶される人が出てきます。それが正しい決め方である。けれども、日本の会議は、出席者の意思を踏みにじることを罪悪だと考えて、それを最小限にしようとする。出席者の意思をなるべく尊重しようとすればするほど、出席していない人びとの存在はますます無視され、忘れられていく。そうして、決定からリアリズムが欠けていくわけですが、なにしろ「大きな内側」が世界のすべてなので、そういう想像力は働かない。

173頁
「政治にはお金がかかる」という当たり前の前提を認めないことによって、日本の政治は非現実的なものになった。

197頁
まじめに努力しているのに結果が出ないなら、本気を出していない人物よりも輪をかけて無能だ、ということになる。日本人には冷酷に思えるかもしれませんが、それが近代の原則であり、あるべき政治の姿であり、民主主義のリアリズムなのです。

228頁
いちばん肝心なことは、自分がなぜこの候補を支持するのか、この候補のどの政策がいいと思っているのか、はっきり説明できること。これが説明できなければ、選挙運動に参加する意味がない。誰かに言われてとか、党員なので義務感からとかいう選挙運動なら、やらないほうがいい。ボランティアで選挙に関わる場合には、候補者が支持すべき人物であると、ちゃんと確信していなければならない。政党のボランティアは、ただ投票するだけの有権者よりも、高い政治的な見識と責任感が求められる。

2009年2月22日日曜日

歩行者和歌

歩行者に
注意と書いた
看板を
読んでる間に
歩行者を轢く


2009年2月20日金曜日

学校の精神性

今年で私は大学4年生。私が入学したときの先輩はほぼ大学から消える。

早稲田らしさというものが人が代わっても残り続けている実感がある。その点が不思議である。

書を捨てよ

寺山修司の『書を捨てよ 町へ出よう』。

町とは何か?何の象徴か?

ダイアローグの思想

マイケル・ホルクウィスト『ダイアローグの思想 ミハイル・バフチンの可能性』(法政大学出版会、1990年)

われわれは自分自身を見るためには、他者の視線を自分のものにしなくてはならない。きわめて大雑把にいえば、主観性をめぐるバフチン流「本当のような作り話」は、私がどのようにして他者から私の自己を手に入れるかをめぐる話である。私を、私自身が知覚できる客体に変えてくれるのは他者の範疇だけなのである。私は私の自己を、他者はこう見るかもしれないと思い描きながら見る。自己を作り出すには外部からそうしなくてはならない。換言すれば、私は私自身の作者となる。42頁

われわれ皆が自分自身のテクスト、人生と呼ばれるテクストを書いているのである。
45頁

「私」の始まりと終わりを全体的生として構想する可能性は、他者の時間/空間において実現される。「私」の死は他者にとってのみおこるからである。320頁
 →猛烈に印象に残った言葉である。「私の死は他者にとってのみおこる」。

言表はつねに、それに先行する別の言表に対する応答であり、それゆえ、程度の差こそあれ、先行する言表はつねに条件づけられ、次には逆にそれを限定する。バフチンにおいては「言説は状況を反映するのではなく、それが状況なのである」と著者はいう。322頁

2009年2月19日木曜日

ネット知

ネットですぐに調べた知識よりも、自分の手足で調べた知識のほうが価値が高い。

『低度情報化社会』にあるとおり、ネットの知識を重視し過ぎてはならない。所詮、借り物の知識と考えておくべきであろう。

…どうもこのblogは警句集になるきらいがある。でも、まあ、いいか。寺山修司の本領はアフォリズムによってこそ現れているわけだし。

四文字熟語

私の名を表す四文字の言葉(あるアーティストは「好きです」という「四文字の言葉」がどうしても言えないことを叫んでみせた)。

この単語は他人にはどのような感情を伴って語られるのであろうか?

働いてください

「今日も駅にいる」

働いてください!

西武線

西武線
横に一列
みなDS


駅に行くと思うこと

駅に行くと思うこと。

沢山の人がそれぞれの行く先を持っていて、それぞれの場所にいく。それぞれの人がそれぞれの生活・人生をもっている。皆が家族を持っている。帰る家を持っている。

それを考えると、壮大な気分になるのだ。

それぞれがそれぞれの人生を歩んでいる。それを思うと、一人に会い、話し、共に過ごす中で多くの発見があるのだと思う。

沢山の人に会うことと同様に、一人を深く知ることが重要である。人間、そんなすぐにわかりあえず、理解することは出来ない。だからこそ人と会うことは面白いのだ。その人という、世界にひとつしかない実存と触れ合うことになるからだ。

2009年2月14日土曜日

学校化社会

今の時代、受け身では全て流されてしまう。自分で考えなくなってしまう。学校化社会はここまで来ているのである。

学者バカ

学者バカとバカ学者の違いについて気にかかる。

2009年2月13日金曜日

木田元

木田元『最終講義・反哲学としての哲学』を読了。

西洋哲学は西洋独特の考え方の総体であって、日本人の考え方と必ずしも一致しない。

哲学というものにも脱・中心化しようとするのは流石だ。

2009年2月11日水曜日

エクスキュ−ズ

小さな傘では雨はしのげない。それでも小さな折りたたみ傘をさすのはエクスキューズしているのだ。

「私は傘をささない/もっていない阿呆ではないです」と。

2009年2月10日火曜日

誤解を招く話

Macにはタイムマシーンが付いている。

99

ダイソーにはアイデア商品があるが、99にはマストアイテムしかない。

2009年2月9日月曜日

本にならないことを歎く前に、まずは1冊分を書け。

書くことだけが

書くことだけがお前を助ける。

これは卒論を書くということに留まらない。

書くことにより、気分が晴れ、自分の考えがまとまる。精神的にも助けてくれるのだ。

大学紛争

大学紛争は旧来のアカデミズムを粉砕する意義があった。無意味に非ず!

エンジニア

日本人は科学に強い。世界的レベルのエンジニアがいて、ソニーもパナソニックもシャープも日本の会社だ。

ただそれは日本人の特性というより、量の問題。工学部卒の数はアメリカの2倍もいたのが高度経済成長期である。

質より、量を確保する。そのなかで質が出てくる。

2009年2月8日日曜日

エミール

「エミールを読むことにしたよ」
「消極教育を学ぶんだね」
「いや、自殺についてを研究するんだよ」
「?」

注 デュルケームはエミール・デュルケームという名前である。

佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店、2000年)

佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店、2000年)

不登校の問題については、いくつものよじれが質されなければならない。まず義務教育と言っても、子どもが学校に行く義務を負っているわけではない。親が子どもを学校に通学させる義務を追っているのであって、子どもは学習する権利をもっているだけである。したがって、アメリカなどでは、不登校が生じた場合には、まず親の責任が問われ、それでも解決されない場合には、子どもの学習権を保証するために、家庭を訪問して公教育を保障する教師が派遣されることになる。
 しかし、わが国では、不登校の子どもは病的な子どもとして扱われ、カウンセリングが施されている。さらに中教審の答申は、不登校の子どものために中学校の修了を認める認定試験を実施することを提言している。さらに文部省は大検によって義務教育を受けなくても大学に入学できる措置を導入した。本末転倒である。行政に必要なことは、学校に行けない子どもに対する学習権の保証であって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。(中略)しかし、公教育の原理において行うべき対処は、学校に行けない子どもたちの学習権の保証である。不登校という行為は病的な現象ではないし、カウンセラーが対処すべき事柄でもない。(33頁)

→フリースクールの子は学校で学ぶことにそれほどの価値をおかない。「学ばなくてもいい」という指摘もある。佐藤は「学ばせる」ことを重視している。

チャーター・スクールは、成功した場合において、むしろ弊害は大きい。日本人にはほとんど認識されていないことだが、学校選択の自由は、アメリカ社会においては人種差別・階層差別と密接に結びついている。公民権法(1963年)の制定後、表立って学校における人種隔離の要求を提出することは法律違反となった。公民権法制定以後、黒人やヒスパニックや低所得者層の子どもと同じ学校で学ばせることを嫌う親たちが掲げたのが「学校選択の自由」の主張であった。この事情はアメリカ人には暗黙の常識なのだが、日本人によるチャーター・スクールの紹介においては、まったく無視されている。実際、チャーター・スクールの多数は、人種差別・階層差別を基盤として成立している。(中略)近年、日本においても学校選択の自由について活発に議論され、チャーター・スクールへの期待が高まっている根底には、アメリカと同質の「あの子たちとは一緒の学校にやりたくない」という差別の欲望を見ることができる。日本の社会も文化の階級差と階層差を拡大している。文化の階級差と階層差を基盤とする教育意識における私事化の進行が、学校選択の自由への関心をよび、チャーター・スクールへの期待を呼んでいる事実を認識することができる。(pp44~45)

すべての子どもたちに自らの可能性に挑戦する自由を保障することである。教育改革の原理とすべき自由は、新自由主義者が主張するような選択の自由ではなく、学ぶ権利にもとづく挑戦の自由である。(167頁)


一般に教師は、成績のよい子どもが学業に失敗すると、本人の学び方や努力に原因を求めるが、成績のよくない子どもが学業に失敗すると家庭環境に原因を帰属しがちである。(170頁)

2009年2月7日土曜日

オリンピックセンター

フリースクール・スタッフ「研修・養成講座」に来ている。

2年振りの参加だが、非常にためになる。

2009年2月6日金曜日

読書

『ヨーロッパ「近代」の終焉』を読んでいる。

日本は19世紀の西欧(西洋にあらず)に学んだ。19世紀は近代の陰がヨーロッパに現れた時代。日本人は近代の闇のみを学んでしまったのではないか。作者は問いかける。