2007年9月30日日曜日

もっと自由に生きよう。

自分は昔から、「こうでなければならない」といった決まりを、たくさん作りつつ生きてきた気がする。人は絶対、呼び捨てすべきでない、丁寧な言葉遣いをすべきだ、下ネタを話すのは低レベルな話題だ、などなど。

多くは直っては来たが、まだまだいくつかは引きずっている。言語コードを豊かにする、との項でも書いたことである。

自分は多くの決まりを引きずってきている。すべてが善である、と信じて。しかし、善の基準は相手によって、場所によって異なる。友人との親しい関係を作るとき、呼び捨てできないのは大きなハンデとなる。つまり、自分の行動を起こすとき、譲れない「2%」にあたる部分以外は相手のことを考えて行動すべきなのだ。同じ事を伝えるのにも、多くの言い方・あらわし方・動き方がある。譲っていい98%を上手に使って、譲れない2%を伝えていけばいいのだ。

私は、いろいろな顔を見せながら、いろいろな方法・テクも使いつつ、なおかつ「これは死んでも伝えたい、表現したい!」とのやむにやまれぬ熱意を持って、生きていける自分になりたい。まずは、友人を呼び捨てできるようになりたい。より以上の仲の向上のために。

*参考として、原孝『その言い方では、人はついてこない』(PHP文庫)を使用した。

思い、と両立

「思い」「一念」の力は、形式的な「一日、~分を・・・に使おう」ということよりも重要である。「これをやり切るのだ」との熱い、強い決意は、単純な仕事割り振りとは異なる両立を達成できるはずだ。

両立に必要なものは、テクニックなどよりも思いである。「自分は絶対これをやり切るのだ!」との強い決意は、不可能を可能にするほどの力があるはずだ。

手帳はA5にすべきか

私は、ここ数年(中学3年から)ずっと「超・整理手帳」を愛用している。そのため、かなり前から、手帳=A5タテ半分サイズであった。

いま、私のメインのメモノートをA5サイズとした。この際、手帳もA5サイズにしようかと思う。そのほうが一覧性もあがるし、メモとの連動も簡単だ。難点は超整理手帳のよさである、スーツの内ポケットに入るというアドバンテージが使用できなくなることである。これは残念だ。また、リフィル使用時の見えない面が増えるのも難点である。あと、重大にして最大の問題点は、A5サイズのカバーは高い、ということである。これは残念だ。なかなか思い切ることができない。

やすいA5カバーを買って、新たに挑戦してみたい。

自分の振り返り

自分は、行動は出来る。論理だても出来る。私に必要なのは、行動・論理に感情・思い・祈りを込めることである。

「慈なくして詐り親しむ」ことになるからである。

2007年9月29日土曜日

代名詞

「先生」や「先輩」は、相手の名前がわからなくとも使用できる、便利な代名詞なのだとわかった。

コーヒー

急に寒くなった。

温かいコーヒーを買おうとした。

自販機すべてが「つめたーい」 表記であった。

2007年9月28日金曜日

スーツに運動靴

スーツに運動靴という服装になってしまった。まるで教師である。

教師っぽさは、「ちぐはぐなかっこう」で現れるのかも知れない。

教育の手段視

教育の手段視は人間の手段視に繋がっている。

ヘッドホンとイヤホン

ヘッドホンとイヤホンつけたまま、人と話すな!最近、俺はこう叫びたいことが多いのである。

「教育のための社会」メモ

子どもに対し、温かい社会。それが「教育のための社会」といえるのではないか。

いろいろ欠点を持つ子でも、鷲田清一風にいうなら「にもかかわらず愛される」ということである。


子どもの可能性を発揮する場を多く作る。
→イギリスの「ブックスタート」。0歳から5歳までの子どもに例外なく無料で絵本等の詰まったプレゼントを贈ること。政府が行っている。

ある本からの言葉

生きるということは、仕事をすることなんだよ。さて、その仕事だが、誰もやったことのない大仕事をするからには、誰も気づかない、考えたこともない気苦労があるものだ。

ガムシャラ

ガムシャラを漢字で書くと、

我武者羅

となる。ガムシャラっぽさの伝わる言葉だ。

自分は、限りなく朝に弱い。

休日はよく寝倒してしまう。

朝に勝って人生の勝利者に!

これをスローガンに、自己と戦って行きたい。

2007年9月26日水曜日

レズバー

新宿の2丁目に行けば、ホモの集まるバーがある。

また、現実にオカマバーもあれば、オナベバーもある。

では、レズバーはあるのだろうか?

カエサル式メール術

忙しい現代人。

来た、見た、勝った

という単純かつ明解なカエサルの手紙が、忙しさ改善の参考になるかもしれない。

余計な修飾語や前文等は省いてしまって、いいのではないか。

2007年9月24日月曜日

携帯ということ

携帯電話は今や沢山の機能を持った。

携帯電話の略としての「携帯」との語は、極めて適切な言葉であった。なぜなら、電話として使うことよりもそれ以外に携帯電話は使用されるようになったからである。

メールにテレビ、カメラ、ラジオ…

食事

食事には2つの種類がある。1つはただ単に食べるための食事。もう一つは楽しむための食事である。

前者は食欲を満たすという動物的欲求に基づくものだが、後者はスローフード運動が推進する形のものである。

ゴルバチョフのことば

新たな真のヒューマニズムは、人間が自分自身でありつづけること、自分らしくあることの権利を護るべきです。私は、この点が、従来のヒューマニズムと新しいヒューマニズムとの決定的な違いだと考えています。

「21世紀の精神の教訓」

2007年9月23日日曜日

ひとりじめ

ひとりじめのいちごミルク

という商品がある。

本当にうまいものなら人に勧めたくなるはずだが…

会話

人の会話を客観的に聞くと、かなり面白い。

今日、演劇にいって知った。

2007年9月22日土曜日

先生を選べ

最近、「先生を選べ」という本を友人宅で読んだ。

理由は忘れたが、

「あの先生のいうことだから、何か意味があるのだろう」と受け止めることが大切だ。自分の先生の発言や著作のヘキゲン節句をあげつらい、批判して「我賢し」、というのはあるべき姿ではない

とあった。そして「先生を批判するよりも、自分自身がその先生の理論を乗り越える」重要性を説いていた。

人との約束、自分は時々、寝ちぎる。理性が感性を支えられていない。

「やばい、寝てしまう」危険のある際は、早めに移動し、集合場所で寝る。寝てしまいそうなとき、自宅から出ることを習慣化したい。

いろんな人から、信頼を失っている気がする、睡魔によって。

2007年9月21日金曜日

アポと講演

2週間前にアポをとって講演に来て下さる人は、2週間前にアポを取っても来てくれるような人である。

修業

眠さに耐えるのも修業なのであろうか?

2007年9月20日木曜日

教育学「臨床の知」

教育学の「臨床の知」に、一番近いのは現場の教員ではないか。

山本周五郎の言葉

心に傷を持たない人間はつまらないように、失敗のない人生は味気ない。

2007年9月19日水曜日

風呂の決まり

なんか知らぬが、俺のいた寮では、変な決まりがある。

腰に巻くタオル。入浴時、落ちぬよう、洗濯挟みで継ぎ目をとめるのだ。

面白く、合理的な決まりであったものだ。

エルンスト・マッハ

エルンスト・マッハのメモを、自宅で再現してみた。

マッハのみた世界、それはマッハにとっての直接経験である。マッハがものを学ぶとき、写真に示した世界を見ているということを意味する。「客観的」だと思われるものも、結局は白黒で示したマッハの写真のように、「主観的」なものが前提になっている。

フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた。この場合、学問的であるためには、なんとしても、この光景に還元せねばならないのである。というのも、私たちは、この光景(あるいは表象)の外に出ることができないからであり、それにもかかわらず、その外に出られると考えるのは、非学問的だからである。
谷徹『これが現象学だ』(p47、2002年、講談社現代新書)

ちなみに、右のが私が試みた「私の直接経験」である。マッハの絵をもとにした。

2007年9月18日火曜日

プライスレス

モノより思い出より、経験。


これがプライスレスで、人生で最も役立つものでは? あと人間関係があれば完ぺき。

政変と雑誌と平常時

政変のとき、普段雑誌を買わない層は、「気になる!」と思って雑誌を買うのだろう。

何も事件のないとき、それでも売り上げを高めようとするため、デマやでっちあげ報道をしてでも、マスコミは自ら重要な事件をつくろうとするのかもしれない。

何もないなら、わざわざ雑誌を作らずともよいのではないだろうか。報道自体が自己目的化していないか。

積分

自分は積分的生き方をしているかも知れぬ。

すべてに於いて、ワカッタツモリになっている。

2007年9月17日月曜日

修正液

ゴロ的に、「修正液がかかった」とは言いづらい。

聞き方によっては「精液」なので。

2007年9月16日日曜日

japan

japanとは、漆の意。

だからjapanをバッシングすると、かぶれるゼ。

落合

A「集合場所は落合駅にしようよ」
B「なんで?」
A「落合で落ち合いたいから」

2007年9月15日土曜日

下痢

下痢は起きてほしくない最悪のタイミングで、出現する。

入試、結婚式、バイト中、電車内。

まさにゲリラ的。だから下痢というのだろうか?

2007年9月14日金曜日

中国

中国論がよく語られる昨今である。

私はいろんな中国論を聞くが、ひとつ重要な点を外した議論が多いと思う。

それは中国には日本の10倍人がいる、という点だ。
中国製品叩きはいま多い。しかし、日本の10倍人がいるのだから日本の10倍不良品が出ても、半ば当然といえるのでないか。

犯罪者が仮に日本の10倍いても当然である。人口が10倍違うのだから。

軍事もしかり。日本はかなりの軍事大国。それでも人口は中国の10分の1。なら中国が日本の10倍の軍事を持たぬかぎり、中国のみを軍事大国と批判することはルール違反のはずだ。
人口が10倍違うのだから、浮浪者も悪人も仮に10倍いて当たり前である。

むしろ逆の面も見るべきだ。人口が10倍違うということは、日本より10倍天才がでて当然である。経済規模が10倍になっても不思議はない。

人口の視点を、我々は発想の根幹に置かぬと、本質が見えなくなるかもしれぬ。

シャッター

川柳

白銀に 輝いてる街 シャッター街

→自分の実家をもとにした。

マッハ

部屋に寝そべり、目の高さから足元を撮る。あっという間にマッハのメモになる。



女性専用車両

いつ見てもヒヤッとするので、時間外に「女性専用車両」と貼るのをやめてもらいたい。

2007年9月13日木曜日

今日聞いた、ちょっといいことば

「ギリギリセーフ」はギリギリアウトである。常に5分前の行動が当たり前。


2007年9月12日水曜日

たれながし

「九州 源泉たれながし温泉」

なる本があった。

たとえ事実としても、たれながしという言葉はあらぬ誤解・別のイメージを誘発するので改めた方が良いと思う。

4分の1

この状態、世間的には4分の1という。誇大広告ではないのか。

歌と世評

歌は世評を示す。高度成長の頃、無責任一代男という歌が流行った。

いま、この歌にあった「楽して儲けるスタイル」という風潮は依然として残っている。「この世で大事なものは タイミングに調子いいことに無責任」とあげているが、現代はこれ以上に無思索で短絡的・刹那的な風潮になっていないか。

道楽

学生の出来る最高の道楽は学問である。いくら金をかけても終わりがない。

環境問題とウソ

「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」を読んだ。

「環境に良さそう」、とか「リサイクルしよう」等と言われると、ああそうなのか、と納得してしまう。しかし、この本は「その環境政策は本当に理にかなっているのか」ということまで問いかける。そしてリサイクルに7倍のエネルギーがかかることや「実はペットボトルは燃やされている」こと、全く問題のないことをさも大問題であるかのように示しているという事実を突き付ける。環境政策には利権がからみ、本来行うべき石油使用の削減や食糧自給率の向上よりも、危険性や緊急性の乏しいリサイクルやダイオキシン対策へ人を走らせてしまう。部分的真理でなく、本質的な真理にまで真理追究をもとめる重要性を感じる。

筆者はこのような現状の元凶はマスコミと政府や利権団体にある、と指摘。悲しいことに科学的知見よりも「本当のようなこと」に騙される国民の姿を明らかにしている。

以下は本文から、印象的な内容を示したもの。

環境対策も弱者切り捨てである。ゴミ分別が細かくなると、ゴミの日に出せないほど忙しい人や遠くのゴミ捨て場まで歩けないお年寄りは困惑することになる。
環境教育は、誰にリサイクルの利益がくるのか、はっきりさせず、お上の言いなりで行われている。

無責任を破すること

真実を知らしめることは、無責任を破することにつながるか。私は繋がると思う。

少数弱者

金持ちがたたかれるとき、金持ちは少数数弱者となりうるのだろうか。

管理職になる教師の比率

校長になる教師の比率
→小学校6% 中4、2% 高2、1%

教頭になる教師の比率も、校長とほぼ同じ。

意外に、管理職になる教師は少ないのである。

平成13年度「学校教員統計調査報告書」より。

(笑)は笑えない

よく文章末にくる「(笑)」という語。いきなりすぎて笑えない。もともと笑えないところに付けている気がする。不要なら付けるな。

ブログ名の考察

私のブログの名、変更しようかと思っている。「リバーサイド・メモ」にでも。

理由は3点。
1、井上陽水の同名の曲から。
2、京都の哲学の道は川沿いである。つまり川辺を歩きつつ哲学する道なのだ。私も西田幾太郎のように歩きつつ思索する人間になりたい、と思って。
3、歴史的に真相を明かした河部メモのように、真実を明らかにして残すため。
まあ、しばらく現状維持ですが。

ニッポン無責任時代

今年は植木等が逝去した年である。その意味を込め、いま改めてニッポン無責任時代という映画とその主題歌を再検討してみたいと思う。

植木氏が人気者であった当時、「無責任」はどんな意味を持ったのか。現在、「無責任」はどんな意味をもつのか。映画公開当時の世相と現代を比較してみたい。

2007年9月11日火曜日

アルタ前の皮肉

皮肉ながら、アルタ前にいるとアルタビジョンは見ることが出来ないのに、ABCマートのCMはくっきり見える。

何でこうなるのだろう。

下から見たアルタビジョン

アルタ前では、何も見えない。アルタ前で待ち合わせする人が、一番長く見てくれそうなのに。

街頭テレビ

アルタビジョンのようなテレビ画面は、下から見えない。これでは待ち合わせの退屈を画面ではらすことができない。ALTA前で待ち合わせして実感した。

下から見えるようにしてもらえないのだろうか?

若松河田ステーション

若松河田駅にて撮影。この写真、盗撮行為になるのだろうか?

なるなら、ごめんなさい。未成年なので実名は放送されないはずなので。

言語コードを広げること

使える言語コードはなるべく多い方がいい。

標準語、方言、崩れた言い方、いろんな一人称名詞を使いこなして話したい。何故ならその分表現が豊かになるのだ。前に被抑圧者の方が言語コードが豊かになると書いた。そこから一歩飛躍し、自ら言語コードを広げる努力をしていきたい。

映画館睡眠

何故か知らぬが、映画館で寝るとすごく勿体ない気がする。

金を払っているからか。

最近、よく寝ているのだが…どうすればいいのだろうか?

2007年9月10日月曜日

研鑽、研鑽

教職を志す以上、自分にもわからないことは教えたくない。俺は社会科の免許を取る以上、いつでも政治や経済の動き、倫理や地理・歴史を生き生きと語れるようになりたい。そして尚且つわからないことはわからないと認め、生徒ともに考えていく。決して、わからないことをわかったかのように教えたくはない。

そのためには常に研鑽だ。学びに学んでやる。

表現欲

生活綴方という教育実践が、戦前・戦後に流行った。子どもの思うことを積極的に作文や詩で表せようとする取組である。

ある本に、「これは子どもに表現欲を持たせる実践である」とあった。

私はこの「表現欲」との言葉に印象を受けた。私がいまこの文を打っている原動力の、最適な説明であると感じたからだ。

かつての生活綴方は紙とペンであった。現代のそれはblogという形で実現可能かもしれない。

映画「ブラックブック」

今日、この映画を見た。WW2末期のドイツが舞台の反戦映画である。

従来の構図を覆し、「ナチの幹部にも良心があり、レジスタンスやユダヤ人の中にも悪魔がいる」ことを示している。

保身のため、終戦後すぐ連合軍に部下を売ったナチの大尉。慈悲の心を示すナチの中尉。仲間を売ったレジスタンス。人間の本性を追究する映画だ。

ナチスの幹部といえども、彼等が悪魔のように冷淡な人間であったわけでない。そのことを知った映画だった。

この映画は誰の心にも悪の命があり、同時に善の命のあることを示している。

自己の内面にあるグシャグシャした命を垣間見た気がした。

DS

自作川柳

電車内 横に一列 皆DS

本日の西武新宿線の光景なり。

2007年9月9日日曜日

寝たおす

気付けばいまのいままで寝ていた。虚しい。

寝る時間が少な過ぎても多すぎてもダメだという。

次回のミスを防ぐため、休日には何らかのアポをもって、寝るようにしたい。

無知の知

ソクラテスの無知の知。

自分も気付けば、かなり無責任によく知ってもいないことを話している。

もっと真理を求めねばならぬ。

睡眠

今日、気付けばマックで寝ていた。

なんか、凄く虚しい。

2007年9月8日土曜日

NPO教育行政監視委員会

教育行政を見張る・監視するNPO法人を作りたい。これが私の目標だ。

善が力を持つとは、悪を監視していくことである。

最近、小学校の学習時間が1割増えた。これには、文科省は何もしていないというようなクレームをそらす働きのある気がする。本当に教育行政は、子どもの幸せのために働いているのか? 感覚の問題ではなく、きちんと実地調査をした上で、見ていく必要がある。教育の専門家の知見のみではなく、専門家以外の意見も取り入れていく。無論、普通ならば気づかない小さなものでも、よい行政政策なら積極的に掘り出し、明らかにしていく。

学部学生中に作りたい。というか、俺が作る。

教育と漫画

教育の現場に立つなら、ペスタロッチらの本も大切だが、読むべきは子どもにウケている漫画である。

スラムダンク、ドラゴンボール、バキなど子どもが好きな漫画を読み、子どもと話をする。そこから開けるものもあるのではないか。
教育ボランティアでも大事なことであろう。


2007年9月7日金曜日

逆走エスカレーター

エスカレーターを下から逆に駆け登る。意外に難しく、怖いことが分かった。本気で、ヒヤッとする。

2007年9月6日木曜日

モアイ

いま丸ビルでモアイ展が行われている。今日友人と行ってきた。

立正安国論に、「誤った思想は国を滅ぼす」とある。イースター島に於いて、モアイは宗教心の発露であった。それが権力誇示の手段になり、モアイ作りが自己目的化した。もともとの宗教性が弱いため、モアイ作りに因る環境破壊が起きた。その後、内乱も、他国の侵略も起きている。

日本によりもイースター島のほうが、御書そのままの結果となったことに驚きを隠せない。

人々の信ずる思想・宗教が正しくない、あるいは哲学性の低いものであるとき、悲劇が起こる。イースター島でも、もっと環境との調和を説く思想がひろまっていれば、と思うのである。

歌と世評

不健全あるいは惰弱な歌が流行るとき、社会も悪くなるのではないか。

いろんな年に流行った歌を調べることが、その年に生きた人間の精神状態をはかることになるのではないか。

カラオケ

人はカラオケにいくと、数限りない歌の中からたった一つを選び、歌う。

このときその歌を選ぶ必然性といえるものがあるのではないか。つまり、Aという歌を選ぶ背景には、歌う人の生命状態とAという歌とのあいだに、何らかの共鳴する点があるのだと考える。

その人が何を歌うか。そこからその人の心理状態をしることが出来るのかも知れない。

たとえばいくら流行っている歌でも、自分に合わないという歌を人はうたわない。

田舎

逆説的だが、田舎にいるより都会のほうがよく運動する。

田舎の移動手段は車。都会は電車。電車は立つが車は座る。意外にも都会のほうがよく体を使う。

同様の理由で、都会人より田舎人のほうがCO2排出量が多い。田舎は自家用車、都会は公共交通機関。以上。

2007年9月4日火曜日

映画

映画から見た、アメリカ社会に思うこと。

アメリカでは窃盗が多そうなのに、当たり前のようにオープンカーに乗っている。普通の車より盗みやすそうなのに。

勉強

強いて勉めるのか勉強。だとすればそもそも勉強とは強制であり、楽しいわけがない。

だから勉強という否定的な語ではなく、もっと積極性溢れる「学び」「学習」の語を使っていくべきだ。

母校の誇り

よく早稲田の人は、自分の母校を誇る。校歌を誇る。であるならば母校である高校も誇りに思っていくべきだ。

自分もワセダを誇るのと同じ、あるいはそれ以上に出身高校を誇っていきたいと考える。

憲法

法律は国民の自由をおさえるためにあり、憲法は国の自由を抑えるためにある。だから国民は憲法を守る義務は全くない。

昨日知って、ウロコがおちた

2007年9月3日月曜日

アイスキュロスのことば

学習は苦悩から生まれる

中央線の遅れ

中野→国分寺にいくのに、快速が10分後、各停が5分前にでているとしよう。この状態では快速をまつほうが早い。

しかし、中央線が遅れ、今各停がでるなら、そちらのほうが早い。むしろ快速にのる本来のルートより早く到着する。

遅れたほうが早い事もあるのだ。中央線は難しい。

行動の中に思いを入れる

俺はまるで機械である。あらゆることを、単に作業としてとらえている。行動の中に、「何のため」という『思い』を込められていない。そして、単に「こなす」だけの生活である。自分で「何故こういうことをするのか」考えていない。「やらないよりまし」との理論を常に持ち、行動の意味を考えない。主体性なく、こなしている。

 これではいけないと、真剣に思う。「作業」を超えよ。もっと、行動の中に思いを入れていけ。

 この点ができるようになれば、自分はもっとすごい人間になれるはずだ。その姿を想像すると、興奮してくる。

 自分の一凶ともいえるこの点。何としても変えていく。
 

2007年9月2日日曜日

寝坊

久しぶりに昼まで寝ていた。寝れる幸せ・虚しさを同時におぼえる。

2007年9月1日土曜日

千と千尋の神隠しからの考察

はじめは挨拶や御礼も言えなかった千尋が、映画の中で人間的成長を遂げる。この急激さはカエル男やナメクジ女、魔女にも驚きとして映っていることだろう。

子どもの成長の急激さを思う。成長にはしかるべき環境と場に置かれたほうがよい、ということも。

フーコー思想の断面

知を権力と見なした。

かつて社会のなかにあふていた狂気は、近代になって精神病院に囲まれるようになった。

近代人は古代や中世のひとと違う見方をしているだけだ。人はその生きる時代に特有のものの見方にとらわれ、その外に出ることは出来ない。誰もが一定の思考の枠組みにとらわれている。

職人

職人には仕事道具がつきものだ。学生を学ぶ職人とみるならば(徒弟制がまだ学術界では生きている)、学生の仕事道具は何であろう。

筆記具、本、紙、パソコン、人脈ではないか。

このなかで個人の努力でグレードをあげれるものは、上げるべきである。

筆記具は、もっともレベルを上げやすい。

仕事道具たる筆記具に、学生はどれくらい気を配っているのだろう。仕事道具にこだわらないで、いい仕事つまり学問が出来るはずがないのである。

サルトル

サルトルの本名を、ずっとダンボール・サルトルだと思っていた。