2007年8月31日金曜日

都バス喜久井町

都バスの喜久井町駅ではアナウンスに「金光教早稲田教会入口はこちらでございます」と流れる。

これって、都が特定の宗教団体を保護してることにならないの?

インド仏教はなぜ滅んだか より

イスラムの侵入→ヒンドゥーと、抗ヒンドゥーの役割を持っていた仏教という2極構造がかわる→仏教のもつ抗ヒンドゥー的要素、イスラムに取って代わられる→インドに於ける仏教の政治的役割消滅

ロシアの数学者

サドーヴニチというモスクワ大の教授がある本で引用していた。数学にしか感心がなく、大教授でありながら、ながもちをベッドに4人共用の部屋に住み、給料をそっくり他人に渡してしまう男の話である。実在の人物だというので驚いたのを覚えている。

しかし今気付いた。自分はほとんど家におらず、ながもちしか持たない教授とほとんど同じ生き方をしているのでないか、と。

新宿

新宿はビジネス街。皆もとから遊んでねーよ、と思う。

2007年8月30日木曜日

トルストイのことば

よいことをすることができるのなら、今すぐそれをしなければならないことを思い出すがよい。なぜならば、機会は過ぎ去り二度と戻ってこないものだからである。

2007年8月29日水曜日

松屋の謎

カレーにみそ汁。なぜ松屋はこれをしている?

なんかおかしくないか。

遺伝

自分は自己の経験を絶対化し、それをもとに話すことが多い。

親譲りの悪弊だ。

アポリア

アポを取るのはアポリアである。

最近実感する。

あまり知られていないが、「21世紀への対話」という本は、講談社学術文庫に入っている。

教育のための社会

教育のための社会

との言葉がある。

また

教育の目的は、悪を斬るための善の力を教えること

というような言葉もある。

とすれば、「反・教育的なもの」が悪と言えるのではないか。

野菜生活

コンビニでは普通、1コ105円で売っている野菜生活。

マックでは1コ100円。マックのほうが安い。おまけに、いえば水ももらえる。

意外なところで、物事の逆転は起きている。

マニュアル

マニュアルのみでは、行動の他者性がなくなる。

マニュアル化しつつある現代こそ、他者性を失わないため、働く人の人間性が必要となるであろう。

2007年8月28日火曜日

慣れ

人は何にでも慣れる。だから忘恩になりやすいのではないか。

攻撃精神

(執念を持った人間が最後に勝つ。では執念とはなにか、の問いかけ後に)

「忍耐強く耐え抜くこと」は重要であるけれども、まだ受け身です。
さらにもう一重、強く深く「執拗なまでに攻め抜くこと」これを執念というのです。ここにこそ、勝利の活路は、必ず開けるのです。

「創立者の語らい16」より

一流

一流になる人は文句をいってはいられない。

勝敗

勝敗の分かれ目

「学び続けているかどうか」の1点にある。読むべき本を読み、学ぶべき人から学ぶ。

→「創立者の語らい16」

アニメの法則

長く放送されるアニメは、主人公の名がタイトルになっている。名探偵コナン、クレヨンしんちゃんなどが一例だ。

しかし、最近は例外がある。ポケットモンスターとワンピースである。

英語に何が必要か?

文法・訳読教育から、コミュニケーション英語への転換。

文法・長文を軽視すると、後に弊害がおこるかもしれない。ただでさえ、トッフルで日本人が失点しているのはグラマーなのだから。

睡魔

眠いとき、人間の視野・思考法は狭くなる。

鬱気味になる。

戦っている実感があることだけがプラス点だ。それは自己満足に過ぎないのだが。

2007年8月27日月曜日

良書

よく「良書をよめ」と聞く。

これは常に言い続けないことには、皆が油断し、すぐに楽な「読まない」選択をとろうとするからではないか。

言って下さる方には、申し訳ないかぎりである。

必要条件広辞苑の定義

PがなりたたなければQも成り立たないという関係があるとき、PをQの必要条件という。

→仮定と結論がどうのこうのという、数学の教科書よりわかりやすい定義だ。

人生の成功

一般に、高学歴の人が成功者になりやすいのは何故だろう。私は学ぶ力があるからだと考える。

お笑い芸人でいまも司会を続けている人は、学ぶ力のある人である。明石家さんまは自分のテレビ番組を全て録画、見て自身の芸を研究していると聞く。島田シンスケも同じだそうだ。

成功者は学ぶ人である、とするなら、高学歴が成功の十分条件だ。高学歴の人は少なくとも、学校の勉強は出来るからだ。

人生の成功も、その人が学べるか否かにかかっていると思う。和田秀樹があえて(高学歴を我が子にあたえなさい)というのも理由がないわけではない。

ウィンナコーヒー

喫茶店でしかのめないコーヒーがある。サイフォンなどいろいろあるがウィンナコーヒーはその際たるものだ。

しかし不思議だがスタバやドトールなど、大手のチェーンではウィンナコーヒーは飲めない。

もっと安く200円くらいで、飲めないものだろうか?メーカーさん、いいビジネスチャンスだと思うのでご検討ください。いまのだと高くてそう簡単に飲めないのです。

千と千尋の神隠しより

千尋は映画の中で成長した。でも親はそれを知らない。

これは子どもは親の知らないところで成長していることを示しているのではないか。

神隠しは昔からずっとあった。異界を子どもがさ迷う体験である(高橋勝先生の教育人間学だ) 。高橋先生に因ると異界は子どものそばにあるらしい。

かくれんぼで身をひそめるとき、子どもは生きているとも死んでいるとも言えぬ世界に存在する。これが異界だ。またこのゲームの「オニ」というのも、現実にない存在との出会いを意味する。

異界との出会いのなかからも、子どもは育つ。異界との出会いでしか学べないこともある。千と千尋は、このことをとく話かも知れぬ。

カオナシ

千と千尋の神隠し

カオナシは現代人の象徴。個性がなく、ジコチュウ。
このカオナシはゼニーバのところで手芸の手伝いをすることになった。

これは何を意味するか。現代人の救済には、誰かのために行動すること・なにか手に汗して行動することにある、とのメッセージでないか。ゼニーバも「魔法で何でもやると何にもならない」といってるし。

2007年8月26日日曜日

ハンカチ

ようやく、人前で青ハンカチを使っても、ツッコミを受けなくなって来た。

2007年8月25日土曜日

自分が勝つと、師はもっと偉大になる。訓練を受けている人間であるならば。戦いの好き嫌い・自信の有無に関係なく、やるしかない。自分が勝つと、先生の勝利を体現できる。

苦しいことがなければ、訓練を受けなければ、人は偉大になれない。最近、「やりたくないことはやらなくていい」という、悪しき自由主義・放任主義がいきわたっている。いまはいいかも知れぬが、人生は長い。残りの生涯、どうすごすのか?

苦しいことがあっても、やりぬく。

「足元の蟻」感覚

ふと足元を見ると、蟻が大量にいて思わず驚く感覚。

当たり前だと感じていたもののあらたな一面を見つけるような感覚だ。旅をするのも、本を読むのも、そういった感覚を味わいたいからの行動であるかもしれない。

浜離宮

ここはセミと都心を走る車の音がミックスした空間である。

都会の真ん中の公園というのもいいものだ。


池を見ていると魚が跳ねているのがみえる。

浜離宮

ここはセミと都心を走る車の音がミックスした空間である。

都会の真ん中の公園というのもいいものだ。

築地市場

朝から築地にいった。朝いちでどこかに遊びに行くというのは楽しく朝に勝てる、いい方法だとおもう。

2007年8月24日金曜日

講演のとき、水を運んでくるひとがいる。受け取るとき、会釈して受け取るほうがいいのか何も言わないほうがいいのか、どちらだろう?

カベ

目の前の壁と格闘もできない人間が、偉大な人間になれるわけがない。こういうことを強く感じる。

いま、真剣に戦えずして、「いざ」というとき、将来の夢が叶うときに戦えるわけがない。このこともいま強く感じる。

広告

電車で「アサヒスタイルフリーの売り上げ、1億5000万本突破」と出ていた。

たとえ数値上では「日本人なら一度は飲んだことがある」といえそうだが、未成年の飲酒を認める発言になりそうなのであえて言っていない。アサヒビール内でこういうやり取りがあったのかも知れぬ。

2007年8月23日木曜日

エマソンのことば

全力を尽くすのだ。それが君のすべてではないか。

ある思想家のことば

「偉大な思想」があるかどうかです。それで「教育の質」は決まってしまう。

利き手以外書き

眠いとき、怠いとき、利き手以外で字を書くと、意外に頭がスッキリする。今日発見した。

方言

方言をしゃべる者は標準語社会では抑圧を受ける。しかし方言話者は方言と共に標準語も話せる。そして結局は方言話者のほうがつかう言語コードが豊かになる。

方言を話せるということは、もう一つの言語コードをもつということである。

青山

青山は、もともとお墓を意味していた。

だから「青山霊園」は「お墓お墓」ということである。

徒然草より

改めても得にならないとこは、改めないほうがいい。

→最近の私の座右の銘である。教育行政一般にも言えることである。
現代人はとかく物事に手をかけつづける。物事の本末転倒もそこから起きている。
今一度、「なんのためにこれをするのか」の確認が必要であろう。

ひとりぐらし

総じて、一人暮しから学ぶことは多い。

掃除機

寝る直前に掃除機をかけると、咳込んでしまい、寝られないと気付く。

レオナルドのことば

性急は愚かさの母である。

→迅速と性急はどうちがう?

2007年8月22日水曜日

カレーの辛さ表示

カレーの辛さ表示、全国共通に出来ないのか?

ある思想家のことば

未来を開き、未来を育むといっても、その主体は「人間」にあるといってよい。「人間」をつくりあげる事業こそ、すなわち教育にほかなりません。「人間」の内なる無限の可能性を開き鍛え、そのエネルギーを価値の創造へと導くものです。いわば教育は、社会を開き、時代を決する「根源の力」であります。

なぜ物語には悪い大臣がでるのか

リボンの騎士にも、ドラえもんの映画「のびたの大魔境」にも、玉座をねらう悪い大臣が出てくる。

なぜ、あえてこのような者を大臣にしているのか?私は社会学の用語である「コアプテーション」がヒントになると思う。

対抗勢力を敵視せず、あえて自分の陣営に取り込むこと、それがコアプテーションだ。

国内をまとめるため、あえて政敵を大臣とし、大臣派の人々を懐柔した王様。しかし大臣は王を目指す。ここからさきほどの物語が始まる。


現実社会にもこれがあり、自民党の旧派閥が該当するだろう。

クイズ

会社内で、クーラーの温度を28度設定する会社の方針に反対している人は誰か?

答え・労働組合(レイボー・ユニオン)

まずいもの・うまいもの

モンテクリスト伯という小説に、次のような一文がある。

子どものときに、またはじめて食すときまずいものが、しばらくすると珍味としてもてはやされるようになる、と。

ビールに始まり、牡蠣、雲丹、煙草など多くのものが該当するだろう。

私は豆乳もそのひとつでないかと思うようになった。

批判

批判するのは人の自由である。しかし私は何も表現しない批判者よりも、批判されつつも表現する側にまわりたい。

稲の花

知られていないが、稲には花が咲く。写真の白いのがそれである。私の実家で撮影した。


実物に触れないとわからないものがある。そこで暮らさないと見えないものがある。

教育における多様な経験の重要性を思う。

「ヴィジュアル時代の発想法」

引用。

「情報の価値とは何でしょう。
それは関係性にあると思います。
個別の情報ではなく、それらが出会い、溶け合い、融合したところから、新しい生命を持った情報が生まれる。それこそが価値となるのです。」

→創造における、直感や偶然の復権を説いた本である。

2007年8月21日火曜日

158

早稲田そばにある

いちご屋

という店。実は21種類ものオリジナルハンバーガーが人気で、マニアを唸らせているそうだ。

ただ元気と叫んでいるだけではない。是非いってみてほしい。

顔文字

メールを書いているとき、書いた顔文字と同じ表情を人はしていない。

たとえば

p(^^)q

なんて、やってるわけがない。

学問

教室の中だけが、学問ではない。バイト先にも、映画の中にも、学問がある。

ただ書物による学問のほうが若干高級なだけだ。

エッセイ

いつかエッセイ集を出すときがあれば、タイトルを「父上、いかにのたもうも」にしたい。

旅行記をもとにした授業

京都などに教師がいく際、写真を撮ってくる。

後日それをスライドショーしつつ、教科書ではわかりにくいことを、教師の経験とビジュアルをもちい、解説する。

地理や歴史、政経など多くの社会科科目で活用できる。

生きた学問を伝えられる。それに教師の経験を話せるので、授業が生き生きする。

2007年8月20日月曜日

野党

万年野党は不必要です。

歩きながら考えるツール

携帯は歩きながら考える・字を書くのに最適なツールである。

片手でかける、字が暴れない、帰宅後すぐに文章化できる。

実際、この文章は西田幾太郎ゆかりの哲学の道を南禅寺に歩みつつ、書いている。

もう少し技術があがればブラインドタッチも可能になるのだが…

京都の地名

京都では寺院の名前が、そのまま地名になっているところがある。

例・銀閣寺

銀閣寺

私が銀閣寺についたとき、既に見学時間は終わっていた。銀閣寺へのみちも、シャッター街となっている。

まあ、いいか。哲学の道はいけそうだし。

ドトール

ガソリンスタンドに、ドトールコーヒーがテナントとして入っていた。

面白い。

京都御所

京都御苑は広い。ここはもはやランニング・スポットである。

京都

ラーメンズのネタの中で「京都の人口の半分は仏像、もう半分が修学旅行生」とあった。


今日行ってわかったのは仏像3分の1、修学旅行生3分の1、残り3分の1は外国人だ、ということだった。

阪大の門

無門の門を自称するくせして、早稲田には校門があり、夜は閉じている。

何も知られていないが、大阪大学には門がない。夜でも敷地に入れる。

教育委員会は子どものためにあるとする。だとすれば建物の外装も子どもが気軽に来れるようなものでないと行けないのではないか。相談に行きにくい雰囲気のスクールカウンセラー室が溢れる現在の学校と等しくしてはならない。

ネオファウスト

なぜ手塚がネオファウストを書いたのか。

知識探求をし続けることが幸福に繋がらない。ゲーテの時代からのテーゼがまだ続いている、といいたいからではないか?



駿台、暗黙のルール

めざすなら、夏は駿台。

遊んでしまったら、春は駿河台。

京都駅テヅカワールド

京都駅に手塚治虫のちょっとした博物館がある。しげしげと、観光を忘れ小1時間「ネオファウスト」を読んでいた。

未完の書である。続きを読みたかった。

それにしてもゲーテをもとに漫画を書くという、手塚治虫の思い切りのよさに感銘をうける。ゲーテを引用することは私にも出来るが、ゲーテをまくらに話を組み立てることはそう出来るわけではないからだ。漫画の神様にしか出来ぬことであろう。

トートバッグ

旅行に行くとき、トートバッグがあると便利である。

お土産いれるとき、大きな荷物をロッカーにいれ財布やカメラを運ぶとき、ゴミを別に分けるとき

…多くの使い方がある。あると便利、ないと不便。今日私は京都観光。無くて困っている。どこかで買おうか?

「養生訓」

貝原益軒の著作「養生訓」には、いかにすれば長寿できるかが項目別に書かれている。貝原の実践にもとづいているそうだ。

限りある命を、養生する方法をしらないまま、無駄にするのは自殺と同じ。この貝原の指摘にハッとした。

この本のすごいところは「長生きしたいなら、若いときに性行為をやりまくってはならない」とまともに書いているところである。最近のどの本にも「ここまでストレートに書かないだろう」というくらい、明確に書いている。

自分が真実と思うことを言い切る。貝原の姿からその重要性を感じた。

ものの言い方

ものには言い方がある。これを私は高2で学んだ。

2007年8月19日日曜日

学習と自己目的化

学習の場において、自己目的化が多い気がする。

子どものノートとり、参考書への過度のマーキング、下線引くのにわざわざ定規を使う、線を引いて消せばいいものをわざわざ消しゴムで消し、ボールペンでいいのにシャーペンでカシャカシャ無駄な芯出しの苦労をする。

何かあてはまることはないだろうか?

全て、学習には何の関係もない行為である。何でこんな無駄をするのか。学校の教師の学び方が下手で、効率のいい学習法を提示できない点に問題があるのでないか。

1984

洋書でオーウェルの「1984」を読んだ。といっても、学習者用に易しくなっている本だ。

筋はわかる。しかし、英語力のなさがたかり、細部は読み取れなかった。

結局、「読了のための読書」になってしまった。読書の自己目的化である。これでよいのだろうか?

カントが死の床でいったように「これでよいのだ」といいきれれば楽であるのだが。

新高山

(わかる人にもわからないネタ)

ニイタカヤマノボレ

英語で言うと?

マウンテン・ドゥー

失敗学

失敗をするほどに、成功は近づく。しかしそのためには失敗から学ぶ姿勢が欠かせない。

チンダル現象

宮沢賢治のいう「光でできたパイプオルガン」のこと。光の通過する線の中にある無数の粒子に光が反射して、光の存在を示す現象。雨上がりの後などに見られる。

ネットワーク社会のゆくえ

高度なネットワークは田舎にまで張り巡らされた。田舎にいながら、社会と繋がることが可能となった。

過疎の進む田舎と社会が繋がったのである。これは何を意味するのか。

まずかつては都市でしか享受することの出来なかったサービスを田舎で得ることが出来る。過疎化しても、都市と繋がりを持つことが可能になる。Uターンしてくることも容易になる。

文明の発達は都市化と過疎化をうんだ。ネットワーク化はその矛盾を埋める存在であるかもしれない。いや、過疎・過密を防ぐため、断じてそのような働きを持たせるべきである。


2007年8月18日土曜日

田舎

田舎の空気はきれい。無責任に人はそういう。しかし、田舎の子どもは農薬の香りを嫌になるくらい知っている。

あの、何とも言い難い少し甘みを感じる臭い。都会人はほとんど知らぬ。

写メール

写メールの高さに、ようやく気付いた。

2007年8月17日金曜日

ゴルゴとブラック・ジャック

両者は非常によく似ているが、1点違いあり。

笑うか、笑わぬかである。

田舎の価値、都会の価値

田舎にいく。そこに価値を感じられない人は、都会の本当の価値を気付くことも出来ないのではないか。

2007年8月16日木曜日

ドストエフスキーの言葉

君たち、仮に人間は馬鹿でないとしよう。(中略)しかし、たとえ馬鹿でないとしても、呆れるほど感謝の念がない。桁外れの恩知らずだ。人間に最もふさわしい定義は、恩知らずの二本足だ、と俺は思っているくらいなんだ。しかし、これだけじゃない。これはまだ人間の主要な欠点ではない。最も重要な欠点は、絶え間なき善行の不在だ。(「地下室の手記」より)

林竹二のことば

学ぶとは、何かが変わることである。

2007年8月15日水曜日

パリ、テキサス的世界

自分は不意にすべてを投げ捨てどこかに行きたくなる。映画「パリ、テキサス」 のラストに同じ。

自分の精神的弱さが原因か。

七三

七三の嫌いな人へ…

オーシャンことジョージ=クルーニーも七三ですよ?

小牧治著『カント』(清水書院)より

そもそもわたしが、カントの考え方に感激したのは、つぎのことだった。すなわち、この世の幸福を追うのではなく、その幸福を受けるに値すること、つまり、道徳的義務の命令(純粋な理性の要求)にしたがうこと、それを、人間の尊さの源泉としたことだった。(p18)
→幸福になること自体でなく、幸福になるだけの行動をすることが重要なのだ。

人は、人事をつくして、しかもつくしえない自己をなげくとき、かえってそこで、「人事をつくして天命をまつ」の境にふれるのである。天助としての神を望むことがゆるされるのである。あらんかぎりの努力をするとき、自らの物理的能力のうちにないものが、より高い存在である神の協力によって補われるのを、望みうるのである。それこそは、純粋理性の信仰とも称しえよう。ここから宗教への道も通じるのである。(p185)
→神頼み的宗教は、無意味である。努力したことを最大限に発揮するために、宗教があるのではないか。よく仏法は道理といわれるゆえんであるのでないか。

2007年8月14日火曜日

blog

blogは自己目的化する。

一般に、自己目的化を防ぐのは難しい。

本の一節

詰め込み教育は、詰め込んでいない

効率主義に対しての批判は、効率が上がっていないために起こる

教科書は厚いほうがいい

詰め込みや理解重視か、受け身型学習かそうでないかという2者択一の思考でなく、学習者にとってどちらが学習しやすいかを問うべきである。

勉強法のワナ

どこの予備校にも、勉強法専門家然とした学生がいる。この人たち、何故か受からない。

方法論は、自己目的化する傾向性がある。方法を知っても実行しなくなるのだ。

受験生は勉強法の本にはまる。私も和田秀樹に始まり柴田氏などにうつっていった。そして気付く。勉強、ほとんどしてないじゃん、と。

方法を知った方が、効率は上がる。大事なのは何のための方法論か忘れず、方法論にもてあそばれないようにすることだ。

モンテーニュのエセーに、

自分は猫と遊んでいるが、本当は私が猫に遊ばれているのでは

という一節がある。方法論はあくまで方法論なのだとの自覚を忘れてはならないだろう。

2007年8月13日月曜日

一人暮しの虚しさ

一人暮しなのに家出する

某賃貸業者の広告にあった。始め、実感しなかったが、今よく思う。

家に帰っても何もプラスがない、寝るしかない。家にいても虚しい。一人暮らしでは常に思う。

異業種の交流

無印には、通常の店には売っていないものが多い。発想が他と違うのだ。異業種交流というわけではないが、異視点の発想が思わぬ成功を呼ぶことがある。

人間主義とは、使う人のことを最大に尊重する立場である。人間主義のためには各業界の枠を越えた、新たな視点からの発想が、固定観念を破る上で役に立つのかも知れない。

ゴミ袋

ゴミ袋に絵を描く。するとゴミ=汚いとの発想がかわり、ゴミについて新たな取組が出来るようになる。

無印のカタログから引っ張って来た。デザインの持つ重要性を感じる。

アイデア・本コンシェルジュ

どんな本を読むといいか、またどの本が自分にあうか教えてくれる職業。

司書さんとどうちがうのか。これは難しい定義だ。一つ言えるのは、このコンシェルジュの人は事務所を自分で持っている点か。

映画の存在価値

自分は不意に映画やDVDを見たくなる。

1、疲れたがまだ寝るには早いとき
2、思考が停止したとき
3、寂しいとき

心の治療薬が、私にとっての映画なのだろうか?淀川さんも「皆が毎日映画を見ると、社会はもっと良くなる」といっていた。



ピアジェ

新宿伊勢丹でピアジェ展がある、ときいた。スイスの心理学者のことと思い、見に行った。教育学用語事典で調べながら。

いって驚いた。何百万もの値札の着いたピアジェのアクセサリーを展示していたからだ。

痛恨のミスであった。

大学名の研究

大学名の研究。大学名で多いパターンは、

1、地名(東大・早大など。最近流行りの「国際」も入る)
2、元号(慶大・明大など)
3、固有名詞(上智大・同大など)

この3つを組合せているようである。

一般的に、1は指す面積が狭いほど、2は元号が古いほど、よい大学となるらしい。

猪苗代湖

ぱっと見、海のように見える、猪苗代湖。ついつい湖水浴でなく、海水浴といってしまう自分がいた。


あいずライナー

今日は東北に来ている。郡山から猪苗代にいくためあいずライナーに乗っている。いやはや甲子園→東京→東北はいささか辛い。

このライナー、新幹線の席より快適。リクライニングで座席も動く。なかなかハイテクだ。

2007年8月12日日曜日

湖と自己

自分の存在に関わらず、自分のいる組織・集団には後輩や部下がいる。それらの人は自分以外の人が担当するなら、もっと成長しているかもしれない。しかし自分がいる。必死にやらないことは罪である。自分の存在に関わらず、部員さんはいる。

今日は猪苗代湖にきた。この湖で泳いだ。かなり大きい湖だ。この湖も、自分の存在に関わらず、存在している。だとすればやはり自分にもてる全ての力を出し切るべきである。微力を傾けるのだ。

2007年8月11日土曜日

ちょい重要文化財

最近、重要文化財という語をよく聞く。しかし1点疑問あり。重要とは、何を基準にした重要性か? 国民のためとはいうが、具体的にどれくらい国民の役に立つのか?

なんでも重要と言わず「ちょい重要文化財」とでもいえばいいのかも知れぬ。

これからの哲学に求められるもの

これからの哲学に求められるもの、それは「走りながら考える」姿勢ではないか。

以心伝心?

「伝わるはず」「理解されるはず」では、伝わらない。自分のみの私的言葉遣いを排し、よりわかりやすい言葉で何回も伝えていくことが必要だ。報告・連絡・相談を徹底することだ。

2007年8月10日金曜日

海外に行かずとも

海外に行かずとも、貧困の実態は公園のテントでわかる。見過ごしているだけだ。

海外にいって世界の貧困がわかったという御仁は、その実何も本質を見ていないのではないか。

足下を掘れ、そこに泉あり。先ず櫂より始めよ。先賢の教え、軽んず可からず。

2007年8月8日水曜日

ある思想家の言葉

「自分は【幸福青年】である。苦労それ自体が幸福なのだ」。こう思える境涯になっていただきたい。そのほうが賢明である。

周恩来の言葉

人は気力さえあれば、どこにいても学問を求めることができる。

デューイの言葉

人間は戦わねばならない。困難こそ、進歩するためのチャンスとなるのだ。

教育に必要なもの

具体性こそ、教育に必要。

トルストイの言葉

知識は、手段であって、目的ではない。

ペリンスキーの言葉

人間性とは、人類愛のことである。それは、自覚や教育によって育まれるものである。

モテること

モテない、ということは、一つの利点かもしれない。異性関係で悩むことが無くなるから。

2007年8月7日火曜日

義家弘介の言葉。教育の定義

「教育は利益産業ではない。そしてそれを司る場所の一つが学校であるならば、教師たちは効率を優先させて生徒たちを置き去りにしてはならない。労を惜しんではならない。生徒と関わり、本気になって生き方を迫る、それ以上に大切なものなどありえない。私はこの北星余市高校という場所でであった教師たちの背中を見て、それを学んできた。」

「教育とは『権威や制度』による導きなどではけっしてない。教育とは『真の思いと情熱』の導きに他ならない。私は決して忘れない。私自身が、泥だらけの真っ直ぐな思いだけに救われながら、今日まで歩んできた不良少年だったことを・・・。」

「教育とは可能性を持つ者に感動を与えてもらえる、すばらしい営みなのである。」

「教育とは儚いものである・・・。」

「優しさと甘さは違う。教育とは厳しいものである。しかし反面、それは何よりも暖かいものでもある。教育とは人類の未来を創造する、もっとも崇高な営みなのである。」

→いずれも『ヤンキー、母校に生きる』より。

ある思想家の言葉

 挑戦の歩みを止めない限り、たとえ、その時は頂上にまで辿りつけなくとも、足腰は鍛えられる。そして、その鍛錬が、更なる登攀(とうはん)への底力となって活かされていく。
 精神闘争の長征に、徒労や無駄は、一切ないのであります。
 ゆえに、皆さんは、決して、立ち止まってはならない。
 絶対に、あきらめてはならない。
 焦らず、聡明に、「時」を待ち、「時」を創る忍耐にこそ、最後に勝ちゆく人生勝利の要諦があることを忘れないでください。

安河内哲也の言葉

 教えることの究極の目的は、自分で勉強できる力を育てることです。つまり、自主性を育てること。隅から隅まで丁寧に教えれば、講義がつまらなくなるデメリットに加え、受講生が自分で考えようとしなくなってしまう危険性もあります。
 どのような技能を教えるにしろ、特定の人間を永遠に教えつづけることはできません。教えたあとには「自立」してもらう。生徒の自立を支援するのも講師の重要な役割のひとつだと、私は考えています。(『できる人の教え方』)


→育てない「教育」ならぬ「教教」が、増えている。モンスターペアレント、マニュアル型教育はその一例だ。教育は、教える側の自己満足のための営みではない。被教育者の利益に適わなければならぬはずだ。近年軽視されてきた「自立」のための教育が必要である。貝原益軒も『養生訓』で溺愛の危険性を説いている。いまも昔も、真に子どものためになる教育(教教、にあらず)が不足している。

よく分からない商売

最近、いつも思う。グーグルやミクシーはどうやって、収益を得ているのか、と。「さおだけ屋」でなく、この2つの会社がどうやって稼いでいるのかを、誰か教えていただけないだろうか。

ヤフーは、巨大ポータルサイト化した感がある。広告収益もすごそうだ。しかし、グーグルはそのシンプルな見た目上、広告収益がありそうな気がしない。このブログはグーグルのサービスで作っているだけに、日々実感している。

世のなか、身近な部分に分からないことが多い。「無知の知」という奴だ。

友人が「死にたい」と言ってきた

突然の電話。親友からだ。「もしもし?」出る。

友人「オレ、死にたいんだけど…。今、自殺するため北海道にいる」

この時、自分はどう反応するか?

1、「バカヤロ−、死ぬんじゃねえ」という。

2、「一体、何があったの?」と尋ねる。

3、「勝手にすれば」と突き放す。

今日、ある親しい人から「もしこんなことがあったら、君どうする?」と言って、この話を聞いた。自分なら2の返答法をしそうだ、と返した。

その人の返答は違った。「今そこに行くから、待っていろ!」が返答だった。

思わず「カッコイイ」と感動した。

人の心を打つのは、言葉より行動だ。言葉は嘘をつく。行動は嘘をつかない。本当に訴えたいことがあるなら、行動こそが必要なのだと知った。

マックのヒトコマ

A「おまえ、トレーを燃えないゴミに捨てるなよ。」

過剰報道

今朝の新聞から。スキャンダル報道を、これだけの人が過剰と判断。確かに無くても社会は変わらない。

本当に大事なことを落し、本質はずれの物を大事にすることが多いのではないか。

2007年8月6日月曜日

スタ丼行きたいとき

スタ丼行きたいとき

スタ丼行きたいとき

着任終わったとき
一人が嫌になったとき
悪臭のする冷蔵庫を開けたくないとき
おごってもらえるとき
後輩におごるとき
道に迷ったとき
バイクを盗んで無責任に走り出したいとき
友人との関係、気付けば自分のみがいじられキャラになっていたとき
チャリパクされたとき
1限のテストを寝過ごしたとき
手帳を無くしたとき
思考が麻痺したとき
こんなしょうもないblogを疲弊する中書いてるとき…
スタ丼は自分の精神が危機に陥ったとき、何とか姿勢を持ち直させてくれる、病人食である

一人暮しすると解る

ことば

言葉にすることが難しいことを言葉にする。これはすごく難しい。でもやらないといけない。人権という言葉を例にする。人権がなにを指す言葉か、考え、表していく。そうしないで真の道徳教育は出来ない。何故なら言葉にしないで行動化する概念は、存在しないからである。

短い、短い話

自分は短文の組み合わせによる文章が好きだ。複文でなく、重文でもない短文。一つの意味のみをもつ単文が好きなのである。

わかりやすいからである。

ある思想家の言葉

アインシュタイン博士

真に偉大な人間になるための道は一つしかない。
何度もひどい目にあうという
試練の道だ

忍耐、忍耐

昨今、死語化した言葉がある。それが「忍耐」。

努力して、一事を成す心。たゆまぬ心。この精神が消えている。

学問も夢も、忍耐して努力することでしか成すことが出来ない。そして忍耐することで、はじめて自分が強くなれる。自分が思いもしなかった自分になれる。

しかるに、「タイゾー化する子どもたち」との本にあるとおり、現代は努力無しでいきなりの成功を狙う者が多い時代になった。忍耐が古臭くなった。今はこれでいいかも知れぬが、忍耐しない習慣が普通になればこの国はどうなってしまうのだろうか。

2007年8月5日日曜日

ボランティア

今日は学校ボランティア。入試説明会の役員なり。

休憩入れて一日、立て看そばに立つ。ずっと誘導・挨拶。

意外に、皆挨拶を返してくれる。これが1点目。子どもはかわいいと実感。子どもを必ず持ちたいと思う。これが2点目。ボランティアはさわやか。これが3点目。

やってよかった。

ドストエフスキーの言葉

神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。

ジュール・ルナールの言葉

幸福とは幸福をさがすことである。

2007年8月4日土曜日

プロクルステスの寝台

プロクルステスの寝台。物事を制度や決まりを気にするあまり、本質が見えなくなった状態をさす。

ギリシャ神話の盗賊プロクルステス。彼は客にベッドを薦める。客の足がベッドより出ればその分を切り、客の背がベッドより小さければ客の体をひっぱってのばす。ここからきた言葉である。

現代、プロクルステスの寝台的状況が多い気がする。
教育は、本当に子どものための制度になっているか。

ある思想家の言葉

教育は「学生のため」にある。「学生の目的を実現するため」にある。
教員には、そのための献身的責任感が必要であります。
学生を利用したり、学生を手段のように思ったりしては決してならない。
学生は「教えられる立場」であり、教員は「教える立場」であります。
それを本末転倒して、学生の向上を願わず、見下すのは、絶対に邪道であります。

ニーチェの言葉

「私がやっていることはいったい何なのか? そしてこの私はそれによって何を望んでいるのか?」−−これは、私たちが現在行っている教育では決して教えられることのない、したがって決して問われることのない真理の問いである。そんな暇がないのだ。


君の教育者は、君の解放者以外のものではありえない。


いつまでもただ弟子にとどまっているのでは、師の恩に報いることにならない。

2007年8月3日金曜日

教育者の誇り・喜び

理想の図書館作りと子供の教育に思いをよせ、道半ばで倒れたある司書の偲ぶ会=茨城・八千代http://news.livedoor.com/article/detail/3255779/


教育者にとっての幸福は、「自分が、他者の何らかの役に立った」との実感であろう。その思いを、私は下に記した無名の一司書から知ることができる。また、いろんな学校の創設者の思いや教師の喜びも、そこにあるのであろう。

教育は、もっとも人から感謝されやすい仕事であるかもしれない。

【PJ 2007年08月03日】- 7月29日、茨城県八千代町の図書館で『山中治雄を偲ぶ会』が開催された。・・・といっても、誰もが「山中治雄さんって?」と思うだろう。そう、昨年の7 月14日、48歳で癌のために帰らぬ人となった無名の一司書である。だが、山中さんの友人、知人は勿論、八千代町の図書館を利用してきた人、本の好きな人 の殆ど、町の子供の多くが、今も彼の志半ばの死を心から惜しんでいる。

 八千代町の図書館がオープンしたのは1999年7月であったが、決して順風満帆に立ち上がったわけではなかった。一部の町の実力者や町民の反対もあったし、政治的な思惑の渦に立ち往生しかけたこともあった。

 そういう中、町の公民館の図書室に勤務していた何人かの、本をこよなく愛する若者がどんな壁にも屈することなく、図書館設立に邁進していったのである。

 その中心となった若者の一人が、山中治雄さんであった。山中さんの盟友であり、ともに図書館設立に力を尽くした中村宏さんに偲ぶ会当日、山中さんのことについて伺った。

  「とにかく本と子供が好きな人でしたね。本というものが、子供の成長にかけがえのないものになることをよくわかっていて、だから、町に図書館を作ることへ の情熱は素晴らしいものがありました。90年代を代表する福岡の苅田図書館、近くには水海道図書館などを理想として、よく勉強していました」

 「ある時、『司書の仕事をしなかったら何になる?』と訊いたら、『教育研究所を立ち上げたい』と言ってました。町の子供たちの未来を案じていて、そこに自分も本気で関わっていきたかったんですね」

  「二年半前の12月28日、その年の仕事納めの日でした。気分が悪くなり救急車で病院へ・・・。この日から大腸がんとの闘いがはじまり、昨年の7月14 日、とうとう。彼は最後の最後まで諦めなかったと思いますよ。ずうっと明るかった。図書館と子供の教育の夢を語っていた」【了】

決意

高校時代の決意の持続は難しい。気付けば平凡な日々に埋没してしまう。

同志の励ましが肝心である。

ある思想家の言葉

人類数千年の文化遺産は、ことごとく諸君のために用意されている。したがって、知識に対しては貪欲でなければならない。

→学ぶことの重要性。

励まし

人を励ますと、元気が出る。これは限りなく真実に近いのではないか。

自分が悩んでいるときの他者への激励は、そのまま自己に対しての激励ともなる。自己に対し、語っている気がする。他者と同苦することで「辛いが自分もともに戦おう」と思える。

他者への励まし、それは自己への励ましでもあると知った。



同時に。教育こそ、最大の励ましではないか。子どもの可能性を信じ、それを引き出させる。そこには教師としての励ましが必要なはずだ。

デザイン

人のことを言えぬが、デザインの悪いことは犯罪である。

ある団体にしろ個人にしろ、そこの外発的アピールがデザインの悪い方法なら、誤解が生じてしまう。

だからデザインは考えないといけない。答案用紙もホームページも、デザインが悪いと読まれないのだ、いくらいいことを書いていても。

2007年8月2日木曜日

ダラダラ

今日、何もすることがなく、ダラダラ寝転んで過ごしてしまった。

家にいるかぎり、何も起こらない。こちらからのアクションがいる。

一先ず、外に出よう。バイトも重要である。

2007年8月1日水曜日

バイト

バイトを再開した。教師にたいする授業アンケートを集計するバイトだ。

中高生の教師観がくっきりと現れ、怖くなった。普通に「あいつウザイ」「担当替わってくれ」と書かれている。

しかし、反面プラスのアンケートもある。「~~先生のお陰で地理が好きになりました」など。

また、折衷の形でこんなものもある。ある教師には「話がつまらん」「無駄」と書いているアンケートに「~~先生の授業は聞いてためになる」とあった。教師というだけで、生徒が反発するのでない。ちゃんとその教師個々人で判断しているのである。

延々と続く打ち込みをしつつ、思索は深まる。3点、思いついた。

1点目。ある教科の好き嫌いは、たいていは教師の教え方にあるのではないか、ということ。

2点目。いまの子どもは授業を聞かないというけれど、面白い授業・ためになる授業はきちんと聞いているという事実を、受け止めるべきだということ。

3点目。教え方の工夫・教師の自己研鑽しだいで正当に評価を受ける教師という職業像をしったこと。教師という仕事が、自分の転職かもしれないと、まじめに考えたこと。

バイトで金をもらいながら、教育に対する思索や、「生徒から見た、あるべき教師像」を探る訓練をさせてもらえる。いいバイトを見つけたと、つくづく思った。

とはいえ、アンケートは「かける限りかいてください」といって渡される。一生懸命書く。しかし、それを打ち込む側からすれば「げ、こんなに書かなくてもいいのに」といやになる。アンケートの持つ「データ管理のため、打ち込まないといけない」特徴は、多大なマイナス要素かもれないと感じた。