これって、都が特定の宗教団体を保護してることにならないの?
2007年8月31日金曜日
インド仏教はなぜ滅んだか より
ロシアの数学者
しかし今気付いた。自分はほとんど家におらず、ながもちしか持たない教授とほとんど同じ生き方をしているのでないか、と。
2007年8月30日木曜日
2007年8月29日水曜日
2007年8月28日火曜日
2007年8月27日月曜日
人生の成功
お笑い芸人でいまも司会を続けている人は、学ぶ力のある人である。明石家さんまは自分のテレビ番組を全て録画、見て自身の芸を研究していると聞く。島田シンスケも同じだそうだ。
成功者は学ぶ人である、とするなら、高学歴が成功の十分条件だ。高学歴の人は少なくとも、学校の勉強は出来るからだ。
人生の成功も、その人が学べるか否かにかかっていると思う。和田秀樹があえて(高学歴を我が子にあたえなさい)というのも理由がないわけではない。
ウィンナコーヒー
しかし不思議だがスタバやドトールなど、大手のチェーンではウィンナコーヒーは飲めない。
もっと安く200円くらいで、飲めないものだろうか?メーカーさん、いいビジネスチャンスだと思うのでご検討ください。いまのだと高くてそう簡単に飲めないのです。
千と千尋の神隠しより
これは子どもは親の知らないところで成長していることを示しているのではないか。
神隠しは昔からずっとあった。異界を子どもがさ迷う体験である(高橋勝先生の教育人間学だ) 。高橋先生に因ると異界は子どものそばにあるらしい。
かくれんぼで身をひそめるとき、子どもは生きているとも死んでいるとも言えぬ世界に存在する。これが異界だ。またこのゲームの「オニ」というのも、現実にない存在との出会いを意味する。
異界との出会いのなかからも、子どもは育つ。異界との出会いでしか学べないこともある。千と千尋は、このことをとく話かも知れぬ。
カオナシ
カオナシは現代人の象徴。個性がなく、ジコチュウ。
このカオナシはゼニーバのところで手芸の手伝いをすることになった。
これは何を意味するか。現代人の救済には、誰かのために行動すること・なにか手に汗して行動することにある、とのメッセージでないか。ゼニーバも「魔法で何でもやると何にもならない」といってるし。
2007年8月26日日曜日
2007年8月25日土曜日
師
苦しいことがなければ、訓練を受けなければ、人は偉大になれない。最近、「やりたくないことはやらなくていい」という、悪しき自由主義・放任主義がいきわたっている。いまはいいかも知れぬが、人生は長い。残りの生涯、どうすごすのか?
苦しいことがあっても、やりぬく。
「足元の蟻」感覚
当たり前だと感じていたもののあらたな一面を見つけるような感覚だ。旅をするのも、本を読むのも、そういった感覚を味わいたいからの行動であるかもしれない。
2007年8月24日金曜日
2007年8月23日木曜日
2007年8月22日水曜日
ある思想家のことば
なぜ物語には悪い大臣がでるのか
なぜ、あえてこのような者を大臣にしているのか?私は社会学の用語である「コアプテーション」がヒントになると思う。
対抗勢力を敵視せず、あえて自分の陣営に取り込むこと、それがコアプテーションだ。
国内をまとめるため、あえて政敵を大臣とし、大臣派の人々を懐柔した王様。しかし大臣は王を目指す。ここからさきほどの物語が始まる。
現実社会にもこれがあり、自民党の旧派閥が該当するだろう。
まずいもの・うまいもの
子どものときに、またはじめて食すときまずいものが、しばらくすると珍味としてもてはやされるようになる、と。
ビールに始まり、牡蠣、雲丹、煙草など多くのものが該当するだろう。
私は豆乳もそのひとつでないかと思うようになった。
「ヴィジュアル時代の発想法」
「情報の価値とは何でしょう。
それは関係性にあると思います。
個別の情報ではなく、それらが出会い、溶け合い、融合したところから、新しい生命を持った情報が生まれる。それこそが価値となるのです。」
→創造における、直感や偶然の復権を説いた本である。
2007年8月21日火曜日
旅行記をもとにした授業
後日それをスライドショーしつつ、教科書ではわかりにくいことを、教師の経験とビジュアルをもちい、解説する。
地理や歴史、政経など多くの社会科科目で活用できる。
生きた学問を伝えられる。それに教師の経験を話せるので、授業が生き生きする。
2007年8月20日月曜日
歩きながら考えるツール
片手でかける、字が暴れない、帰宅後すぐに文章化できる。
実際、この文章は西田幾太郎ゆかりの哲学の道を南禅寺に歩みつつ、書いている。
もう少し技術があがればブラインドタッチも可能になるのだが…
京都駅テヅカワールド
未完の書である。続きを読みたかった。
それにしてもゲーテをもとに漫画を書くという、手塚治虫の思い切りのよさに感銘をうける。ゲーテを引用することは私にも出来るが、ゲーテをまくらに話を組み立てることはそう出来るわけではないからだ。漫画の神様にしか出来ぬことであろう。
トートバッグ
お土産いれるとき、大きな荷物をロッカーにいれ財布やカメラを運ぶとき、ゴミを別に分けるとき
…多くの使い方がある。あると便利、ないと不便。今日私は京都観光。無くて困っている。どこかで買おうか?
「養生訓」
限りある命を、養生する方法をしらないまま、無駄にするのは自殺と同じ。この貝原の指摘にハッとした。
この本のすごいところは「長生きしたいなら、若いときに性行為をやりまくってはならない」とまともに書いているところである。最近のどの本にも「ここまでストレートに書かないだろう」というくらい、明確に書いている。
自分が真実と思うことを言い切る。貝原の姿からその重要性を感じた。
2007年8月19日日曜日
学習と自己目的化
子どものノートとり、参考書への過度のマーキング、下線引くのにわざわざ定規を使う、線を引いて消せばいいものをわざわざ消しゴムで消し、ボールペンでいいのにシャーペンでカシャカシャ無駄な芯出しの苦労をする。
何かあてはまることはないだろうか?
全て、学習には何の関係もない行為である。何でこんな無駄をするのか。学校の教師の学び方が下手で、効率のいい学習法を提示できない点に問題があるのでないか。
1984
筋はわかる。しかし、英語力のなさがたかり、細部は読み取れなかった。
結局、「読了のための読書」になってしまった。読書の自己目的化である。これでよいのだろうか?
カントが死の床でいったように「これでよいのだ」といいきれれば楽であるのだが。
ネットワーク社会のゆくえ
過疎の進む田舎と社会が繋がったのである。これは何を意味するのか。
まずかつては都市でしか享受することの出来なかったサービスを田舎で得ることが出来る。過疎化しても、都市と繋がりを持つことが可能になる。Uターンしてくることも容易になる。
文明の発達は都市化と過疎化をうんだ。ネットワーク化はその矛盾を埋める存在であるかもしれない。いや、過疎・過密を防ぐため、断じてそのような働きを持たせるべきである。
2007年8月18日土曜日
2007年8月17日金曜日
2007年8月16日木曜日
ドストエフスキーの言葉
2007年8月15日水曜日
小牧治著『カント』(清水書院)より
→幸福になること自体でなく、幸福になるだけの行動をすることが重要なのだ。
人は、人事をつくして、しかもつくしえない自己をなげくとき、かえってそこで、「人事をつくして天命をまつ」の境にふれるのである。天助としての神を望むことがゆるされるのである。あらんかぎりの努力をするとき、自らの物理的能力のうちにないものが、より高い存在である神の協力によって補われるのを、望みうるのである。それこそは、純粋理性の信仰とも称しえよう。ここから宗教への道も通じるのである。(p185)
→神頼み的宗教は、無意味である。努力したことを最大限に発揮するために、宗教があるのではないか。よく仏法は道理といわれるゆえんであるのでないか。
2007年8月14日火曜日
本の一節
効率主義に対しての批判は、効率が上がっていないために起こる
教科書は厚いほうがいい
詰め込みや理解重視か、受け身型学習かそうでないかという2者択一の思考でなく、学習者にとってどちらが学習しやすいかを問うべきである。
勉強法のワナ
方法論は、自己目的化する傾向性がある。方法を知っても実行しなくなるのだ。
受験生は勉強法の本にはまる。私も和田秀樹に始まり柴田氏などにうつっていった。そして気付く。勉強、ほとんどしてないじゃん、と。
方法を知った方が、効率は上がる。大事なのは何のための方法論か忘れず、方法論にもてあそばれないようにすることだ。
モンテーニュのエセーに、
自分は猫と遊んでいるが、本当は私が猫に遊ばれているのでは
という一節がある。方法論はあくまで方法論なのだとの自覚を忘れてはならないだろう。
2007年8月13日月曜日
異業種の交流
人間主義とは、使う人のことを最大に尊重する立場である。人間主義のためには各業界の枠を越えた、新たな視点からの発想が、固定観念を破る上で役に立つのかも知れない。
アイデア・本コンシェルジュ
司書さんとどうちがうのか。これは難しい定義だ。一つ言えるのは、このコンシェルジュの人は事務所を自分で持っている点か。
映画の存在価値
1、疲れたがまだ寝るには早いとき
2、思考が停止したとき
3、寂しいとき
心の治療薬が、私にとっての映画なのだろうか?淀川さんも「皆が毎日映画を見ると、社会はもっと良くなる」といっていた。
ピアジェ
いって驚いた。何百万もの値札の着いたピアジェのアクセサリーを展示していたからだ。
痛恨のミスであった。
大学名の研究
1、地名(東大・早大など。最近流行りの「国際」も入る)
2、元号(慶大・明大など)
3、固有名詞(上智大・同大など)
この3つを組合せているようである。
一般的に、1は指す面積が狭いほど、2は元号が古いほど、よい大学となるらしい。
あいずライナー
このライナー、新幹線の席より快適。リクライニングで座席も動く。なかなかハイテクだ。
2007年8月12日日曜日
湖と自己
今日は猪苗代湖にきた。この湖で泳いだ。かなり大きい湖だ。この湖も、自分の存在に関わらず、存在している。だとすればやはり自分にもてる全ての力を出し切るべきである。微力を傾けるのだ。
2007年8月11日土曜日
2007年8月10日金曜日
海外に行かずとも
海外にいって世界の貧困がわかったという御仁は、その実何も本質を見ていないのではないか。
足下を掘れ、そこに泉あり。先ず櫂より始めよ。先賢の教え、軽んず可からず。
2007年8月8日水曜日
2007年8月7日火曜日
義家弘介の言葉。教育の定義
「教育とは『権威や制度』による導きなどではけっしてない。教育とは『真の思いと情熱』の導きに他ならない。私は決して忘れない。私自身が、泥だらけの真っ直ぐな思いだけに救われながら、今日まで歩んできた不良少年だったことを・・・。」
「教育とは可能性を持つ者に感動を与えてもらえる、すばらしい営みなのである。」
「教育とは儚いものである・・・。」
「優しさと甘さは違う。教育とは厳しいものである。しかし反面、それは何よりも暖かいものでもある。教育とは人類の未来を創造する、もっとも崇高な営みなのである。」
→いずれも『ヤンキー、母校に生きる』より。
ある思想家の言葉
精神闘争の長征に、徒労や無駄は、一切ないのであります。
ゆえに、皆さんは、決して、立ち止まってはならない。
絶対に、あきらめてはならない。
焦らず、聡明に、「時」を待ち、「時」を創る忍耐にこそ、最後に勝ちゆく人生勝利の要諦があることを忘れないでください。
安河内哲也の言葉
どのような技能を教えるにしろ、特定の人間を永遠に教えつづけることはできません。教えたあとには「自立」してもらう。生徒の自立を支援するのも講師の重要な役割のひとつだと、私は考えています。(『できる人の教え方』)
→育てない「教育」ならぬ「教教」が、増えている。モンスターペアレント、マニュアル型教育はその一例だ。教育は、教える側の自己満足のための営みではない。被教育者の利益に適わなければならぬはずだ。近年軽視されてきた「自立」のための教育が必要である。貝原益軒も『養生訓』で溺愛の危険性を説いている。いまも昔も、真に子どものためになる教育(教教、にあらず)が不足している。
よく分からない商売
ヤフーは、巨大ポータルサイト化した感がある。広告収益もすごそうだ。しかし、グーグルはそのシンプルな見た目上、広告収益がありそうな気がしない。このブログはグーグルのサービスで作っているだけに、日々実感している。
世のなか、身近な部分に分からないことが多い。「無知の知」という奴だ。
友人が「死にたい」と言ってきた
友人「オレ、死にたいんだけど…。今、自殺するため北海道にいる」
この時、自分はどう反応するか?
1、「バカヤロ−、死ぬんじゃねえ」という。
2、「一体、何があったの?」と尋ねる。
3、「勝手にすれば」と突き放す。
今日、ある親しい人から「もしこんなことがあったら、君どうする?」と言って、この話を聞いた。自分なら2の返答法をしそうだ、と返した。
その人の返答は違った。「今そこに行くから、待っていろ!」が返答だった。
思わず「カッコイイ」と感動した。
人の心を打つのは、言葉より行動だ。言葉は嘘をつく。行動は嘘をつかない。本当に訴えたいことがあるなら、行動こそが必要なのだと知った。
2007年8月6日月曜日
スタ丼行きたいとき
スタ丼行きたいとき
着任終わったとき
一人が嫌になったとき
悪臭のする冷蔵庫を開けたくないとき
おごってもらえるとき
後輩におごるとき
道に迷ったとき
バイクを盗んで無責任に走り出したいとき
友人との関係、気付けば自分のみがいじられキャラになっていたとき
チャリパクされたとき
1限のテストを寝過ごしたとき
手帳を無くしたとき
思考が麻痺したとき
こんなしょうもないblogを疲弊する中書いてるとき…
スタ丼は自分の精神が危機に陥ったとき、何とか姿勢を持ち直させてくれる、病人食である
一人暮しすると解る
ことば
忍耐、忍耐
努力して、一事を成す心。たゆまぬ心。この精神が消えている。
学問も夢も、忍耐して努力することでしか成すことが出来ない。そして忍耐することで、はじめて自分が強くなれる。自分が思いもしなかった自分になれる。
しかるに、「タイゾー化する子どもたち」との本にあるとおり、現代は努力無しでいきなりの成功を狙う者が多い時代になった。忍耐が古臭くなった。今はこれでいいかも知れぬが、忍耐しない習慣が普通になればこの国はどうなってしまうのだろうか。
2007年8月5日日曜日
ボランティア
休憩入れて一日、立て看そばに立つ。ずっと誘導・挨拶。
意外に、皆挨拶を返してくれる。これが1点目。子どもはかわいいと実感。子どもを必ず持ちたいと思う。これが2点目。ボランティアはさわやか。これが3点目。
やってよかった。
2007年8月4日土曜日
プロクルステスの寝台
ギリシャ神話の盗賊プロクルステス。彼は客にベッドを薦める。客の足がベッドより出ればその分を切り、客の背がベッドより小さければ客の体をひっぱってのばす。ここからきた言葉である。
現代、プロクルステスの寝台的状況が多い気がする。
教育は、本当に子どものための制度になっているか。
ある思想家の言葉
教員には、そのための献身的責任感が必要であります。
学生を利用したり、学生を手段のように思ったりしては決してならない。
学生は「教えられる立場」であり、教員は「教える立場」であります。
それを本末転倒して、学生の向上を願わず、見下すのは、絶対に邪道であります。
ニーチェの言葉
君の教育者は、君の解放者以外のものではありえない。
いつまでもただ弟子にとどまっているのでは、師の恩に報いることにならない。
2007年8月3日金曜日
教育者の誇り・喜び
理想の図書館作りと子供の教育に思いをよせ、道半ばで倒れたある司書の偲ぶ会=茨城・八千代http://news.livedoor.com/article/detail/3255779/
教育者にとっての幸福は、「自分が、他者の何らかの役に立った」との実感であろう。その思いを、私は下に記した無名の一司書から知ることができる。また、いろんな学校の創設者の思いや教師の喜びも、そこにあるのであろう。
教育は、もっとも人から感謝されやすい仕事であるかもしれない。
【PJ 2007年08月03日】- 7月29日、茨城県八千代町の図書館で『山中治雄を偲ぶ会』が開催された。・・・といっても、誰もが「山中治雄さんって?」と思うだろう。そう、昨年の7 月14日、48歳で癌のために帰らぬ人となった無名の一司書である。だが、山中さんの友人、知人は勿論、八千代町の図書館を利用してきた人、本の好きな人 の殆ど、町の子供の多くが、今も彼の志半ばの死を心から惜しんでいる。
八千代町の図書館がオープンしたのは1999年7月であったが、決して順風満帆に立ち上がったわけではなかった。一部の町の実力者や町民の反対もあったし、政治的な思惑の渦に立ち往生しかけたこともあった。
そういう中、町の公民館の図書室に勤務していた何人かの、本をこよなく愛する若者がどんな壁にも屈することなく、図書館設立に邁進していったのである。
その中心となった若者の一人が、山中治雄さんであった。山中さんの盟友であり、ともに図書館設立に力を尽くした中村宏さんに偲ぶ会当日、山中さんのことについて伺った。
「とにかく本と子供が好きな人でしたね。本というものが、子供の成長にかけがえのないものになることをよくわかっていて、だから、町に図書館を作ることへ の情熱は素晴らしいものがありました。90年代を代表する福岡の苅田図書館、近くには水海道図書館などを理想として、よく勉強していました」
「ある時、『司書の仕事をしなかったら何になる?』と訊いたら、『教育研究所を立ち上げたい』と言ってました。町の子供たちの未来を案じていて、そこに自分も本気で関わっていきたかったんですね」
「二年半前の12月28日、その年の仕事納めの日でした。気分が悪くなり救急車で病院へ・・・。この日から大腸がんとの闘いがはじまり、昨年の7月14 日、とうとう。彼は最後の最後まで諦めなかったと思いますよ。ずうっと明るかった。図書館と子供の教育の夢を語っていた」【了】
励まし
自分が悩んでいるときの他者への激励は、そのまま自己に対しての激励ともなる。自己に対し、語っている気がする。他者と同苦することで「辛いが自分もともに戦おう」と思える。
他者への励まし、それは自己への励ましでもあると知った。
同時に。教育こそ、最大の励ましではないか。子どもの可能性を信じ、それを引き出させる。そこには教師としての励ましが必要なはずだ。
デザイン
ある団体にしろ個人にしろ、そこの外発的アピールがデザインの悪い方法なら、誤解が生じてしまう。
だからデザインは考えないといけない。答案用紙もホームページも、デザインが悪いと読まれないのだ、いくらいいことを書いていても。
2007年8月2日木曜日
2007年8月1日水曜日
バイト
中高生の教師観がくっきりと現れ、怖くなった。普通に「あいつウザイ」「担当替わってくれ」と書かれている。
しかし、反面プラスのアンケートもある。「~~先生のお陰で地理が好きになりました」など。
また、折衷の形でこんなものもある。ある教師には「話がつまらん」「無駄」と書いているアンケートに「~~先生の授業は聞いてためになる」とあった。教師というだけで、生徒が反発するのでない。ちゃんとその教師個々人で判断しているのである。
延々と続く打ち込みをしつつ、思索は深まる。3点、思いついた。1点目。ある教科の好き嫌いは、たいていは教師の教え方にあるのではないか、ということ。
2点目。いまの子どもは授業を聞かないというけれど、面白い授業・ためになる授業はきちんと聞いているという事実を、受け止めるべきだということ。
3点目。教え方の工夫・教師の自己研鑽しだいで正当に評価を受ける教師という職業像をしったこと。教師という仕事が、自分の転職かもしれないと、まじめに考えたこと。
バイトで金をもらいながら、教育に対する思索や、「生徒から見た、あるべき教師像」を探る訓練をさせてもらえる。いいバイトを見つけたと、つくづく思った。
とはいえ、アンケートは「かける限りかいてください」といって渡される。一生懸命書く。しかし、それを打ち込む側からすれば「げ、こんなに書かなくてもいいのに」といやになる。アンケートの持つ「データ管理のため、打ち込まないといけない」特徴は、多大なマイナス要素かもれないと感じた。