2007年12月30日日曜日

日本を創った12人後編

過去を乗り越え、日本はいかに進むか。

2007年12月29日土曜日

アマルティア・セン

「貧困の克服」

発展とは人間の様々な自由拡大のプロセスだ。

2007年12月28日金曜日

恋愛の歌

実際に恋愛をしてみないと、恋愛の唄の真意は読み取れない。

体験学習と同じ。

ふと思った。

親の存在

教育において、親の存在は確かに大きいしかし、絶対的ではない。

結局は子ども自身がどのように自己成長したいか、ということだ。

2007年12月27日木曜日

金剛堂

金剛堂ではイヤホンしてると、コーヒーが貰えないことに気付く。

2007年12月26日水曜日

江川紹子

学校を変えよう!

子どもの目線に立つのはいかに難しいか。

アラン

「定義集」

楽観主義の大切さ

2007年12月25日火曜日

コミュニケーションとしての教育

役立つ・役立たないを越え、

コミュニケーションとしての教育

という発想が必要かもしれない。

コミュニケーションは、多湖あきら氏のいう「雑談力」を鍛えることになる。そして文明の発展が低迷化してくるであろう近未来でも、会話は大切である(オートメ化はギリシアの奴隷と貴族のように人々を有閑にする)。

社会で役立つ・役立たないを越えて、コミュニケーションとしての教育・交わりとしての教育

を指向していくべきではないか。

2007年12月24日月曜日

アラン

毎日書く。書きたくなくても書く。

僕がアランから学んだこと。

学校で教えない会話法

学校では、真実の大事さを教える。しかしある程度の嘘が、会話において必要となる。すべて説明すると長いとき、真実をいうと相手がイヤな顔をするときなど。

ほとんどの人は学校外で矯正されるが、私はそうではなく、いまさらながら他の多くの人達が幼少の頃に発見したことを発見している。

人が大人になるには、非常に多くの物事の発見が必要なのだ、と思う。学校がそれを教える場であればいいのであるが。かえって嘘を教えているような気がするのである。

読書

なかなか本が読めないな…っていうときは、軽い感じの本を読むといい。読み終えた達成感が、ペースを取り戻させてくれる。

2007年12月23日日曜日

育成の根本

育成の根本は祈りである。

2007年12月20日木曜日

カラオケ内

愛の形というのは変化しないものなのだろうか?

リアルを手に入れるとは真理の探求か?生きている実感のことか?(リアルフェイスを聞きながら)

2007年12月18日火曜日

コズミックセンターの…

コズミックセンターのプラネタリウムにいった。一般対象には月に3度しか公開がない、いささか閉鎖的なところである。

冬の星座として、オリオン座のはなし。オリオンの後ろにおおいぬとこいぬ座が控え、獲物を狙っている。オリオンの視線には牡牛がいる。オリオンの足元には獲物の兎、さらに下には鳩がいる。

オリオン座しかしらない私だったが、星座のドラマをしる。

今日、星を見上げてみた。オリオンは見えるが、おおいぬはシリウスのみ、子犬もプロキオンだけ。兎と鳩は存在もない。

都会の侘しさ。

読書の姿勢

人と会うように、本を読む。

これが大事なのではないか、とふとおもう。

2007年12月16日日曜日

普遍

「俺は通学生が嫌いだ」ということが、高校時代多かった。しかし、個別の通学生のなかに仲のよい人も多かった。

よく「−−なんて、嫌いだ」と俺はよくいうが、その一言が仲のよい何名かを斬るつもりはさらさらないにも関わらず、切り捨てていることがある。

個別を無視して、普遍のみを見てはならない。

バリアフリー

ワセダではなぜバリアフリーが進んでいないのか?それはスーパーなフリーがあったからだ。

セカイ

自分が動けば動くほど、自分の世界が広がることが分かる。

利害関係外のつながり

自分に直接関係する人よりも、昔の友人など「仲がいいが直接利害関係にない人」のほうが、相談しやすいこともある。多様な関係が必要なわけだ。また近すぎる人は逆に相談しにくいのかも知れない。

他人であるほうが、プラスとなることもあるのだ。

2007年12月11日火曜日

目覚ましでない

目覚まして起きるのではない。「必ず起きてやる」との意地と意思で起きるのだ。

第2節 社会-文部科学省

第2節 社会-文部科学省
→中学の学習指導要領。
教育学をやるなら、何かと文科省のWEBサイトが便利である。当然、ブックマークしてますよね?
 最近、講演を聴きに虎ノ門まで行った。帰り、そのままほっつき歩く。気づけば霞ヶ関。
 「埼玉にも同じ地名があるよね」といいつつ、友人と行く。
 ふと見ると、暗闇に映えるビルが。見ると、文部科学省のビルである(別館)。
 「誰か、ここの住人が俺の同期から出るかもしれない。」ワセダの恐ろしいところである。

2007年12月10日月曜日

ルサンチマンとは

ルサンチマンとはうらみ、反感のことである。

狂人

兼行法師のいわく、

「狂人のまねだ」といって狂人のまねをすると、狂人として見られる。


逆に自分がいい人を演じれば自分はいい人になるのであろうか。

民主主義

民主主義は手段であって、目的ではない。

小林よしのりの言葉だが、確かに、と思う。

価値と手段、目的と方法の混同した現代への警鐘だ。

2007年12月7日金曜日

高尾山

本日、八王子市立高尾山学園訪問後、ノリで高尾山登山へ。スーツで登るものじゃない、と気付く。

見晴らしも、建物も、サル園も素晴らしい。

登っていてチップス先生を思い出す。

2007年12月6日木曜日

趣味

自分の趣味は、日本に於いていかに左利き人間が迫害されているかを熱く語ることである。

2007年12月5日水曜日

アイデア

1分20円の飲み放題の店。あると便利かもしれない。

2007年12月4日火曜日

アランと肉体

「あれこれ悩むな。考えるな。その間に動け、歩け、走れ、体動かせ。」アランの本を読んで思ったことだ。

人間は思考を重視し過ぎている。もっと「考えない」重要性を見てもいいのでないか。人間も、所詮はサルである。考えるのは人間の特徴だが、それに絶対の価値のあるわけでない。

もっとパパラギでいってもいいのでないか?

疲れたとき、人間はもう無理だ、と思う。アランなら「そんなこという間に、寝ればいいじゃないか」というだろう。

「両立なんて無理だ」と考える前に、ただ淡々と「考えず」やるだけことだ。自分も「これはむりでないか」と考えるほど、無理のように思え、実際無理になったことがあった。高校時代である。


2007年12月2日日曜日

手塚治

手塚漫画は、描かれた時代を知ったとき、あまりに古くて驚くことが多い。

2007年11月29日木曜日

カラオケの歌詞より

泣いてもいいよ 僕も泣くから 今日だけは許してよ 神様

荒野を渡る風 ひょうひょうと ひとり行くひとり行く 仮面ライダー 哀しみを乗り越えて ひとりひとりたたかう されどわが友 わが故郷 ひとりでもひとりでも護る護る俺は 仮面ライダー 

あきれるほどに そうさそばにいてあげる 眠った横顔 ふるえるこの胸ライオンはーと

…「よりそう」「そばにいる」という、現在の心理学とおなじ方向性が歌詞の中にあることに気付く。

SMAP

ライオンはーとに夜空ノムコウなどなど。

SMAPの歌はカラオケでかなり使える。

それはSMAPがいい歌を出しているからか、SMAPに歌を提供する人が凄いのか、SMAPの雇用主のジャーニーさんのコネがかなり広いのか、のどれかだろう。

カラオケに出る歌詞から

太陽が凍り付いても 僕と君だけは消えないで


…カラオケの中では携帯によるメモは場を保たせることが出来るから有効である、と気付く。

2007年11月25日日曜日

呼び捨て

最近、ようやく人を呼び捨てで呼べるようになった。

昔の、欽ちゃんエピソードを思い出す。

はじめ視聴者からの葉書を「さん」付けで呼んでいたそうだ。そのとき視聴者よりこんな手紙がくる。

「友達なんだから呼び捨てにしようよ。仲良くなれないじゃない」

以来、呼び捨てにするようになったそうだ。

仲良くなることの一つの現れに、名前の呼び捨てということがある。そのことに気付き、慣れない中、無理して直してよかったとおもう。

2007年11月18日日曜日

牧口教育学は、フリースクール的要素を多分に持つ。

2007年11月16日金曜日

アウトサイダー

昨夜、馬場のバー・アウトにいった。

写真はそこのオリジナルである、早稲田というカクテル。ウォッカベースで作ってある。味もそうだが、色に感動した。何故早稲田かは、いろから推測してもらいたい。

たまには高めだが落ち着いて飲めるところに行くのもいいものである。

2007年11月6日火曜日

ひとつより、ふたつ

ひとつより、ふたつのほうがいい。しかし両立・三立の前提となるのはひとつの確たる哲学だ。単に「あれもこれも」ではちゃんぽん酒になる。カクテルにするには確たる哲学が必要だ。そこに信仰の出番がある。

2007年11月5日月曜日

カラオケ

大人数でのカラオケは、何が楽しいのかわからない。
自分はカラオケするなら少人数でいろいろ歌えるほうが好きなのであるが。私の様にカラオケの下手な人間にとって、大人数カラオケは場違いになる。

それでも多分、大人数カラオケに好き好んで参加してしまうのが哀しい性である。

本当のことをいえば、カラオケでオールをするのが何故定番となっているのか知りたい。ほんの40年前にはなかったのに。

2007年10月30日火曜日

ある思想家のことば

信念の人には、障害となるものなど何もない。

2007年10月27日土曜日

最近、無性に眠いのである。とうとう、気付けばトイレで寝るまでになっていた。和式なのに。

2007年10月23日火曜日

自己の悲哀

「世界を制覇せんと欲せば先ず自己の悲哀を制覇せよ」最近、私の頭から離れない言葉だ。


俺は無理だ、出来ない、辛い…

こんな自己への不信を捨てるのだ! 自分の可能性を自分が信じないで、誰が信じられるのか。弟子の誇りというけれど、自分が「弟子になる!」と決めないで、誰が決めてくれるというのか。

自己の悲哀。先ずは打ち勝とう!

孤独になるかいなか?

正しいことを言い切り孤独になることと、相手に混じりながら少しづつ真実を語っていくこと、どちらが価値的だろうか?時によるのか?

2007年10月17日水曜日

眠気

どうしてこう眠いのだろう? 5時に寝て、6時45分に起きたのに。

2007年10月15日月曜日

ゼミ

A「ゼミどこにするの?」
B「おれ代ゼミ」

例えば子どもがいるだけで

ただこどもがいるだけで、社会には教育的効果がある。たとえば子どもの前で信号無視出来る人は、それほど多くはない。子どもへの意識・配慮か社会を改善させているのだ。だからこそ子どもを忘れた社会は、それだけ「終わった」社会である。

2007年10月14日日曜日

ウォルター・スコットのことば

最良の教育とは、人が自分自身に与える教育である。

ことわざ

時は金以上なり。

2007年10月13日土曜日

知的興奮

知的興奮と性的興奮とでは、どちらの興奮具合のほうが大きいのだろうか?

2007年10月12日金曜日

アポ

今日、ひるメシのアポが2つある。12時と13時。

有り得ないことだが、私の昼飯も2回食べることとなった。

2007年10月11日木曜日

教育運動

教育運動に取り組む人は、自分の子ども時代の損益を取り返そうとしているだけなのか。そう思うときもある。

学校内いじめ

教師→教師も、学校内のいじめに入る。

未知の道

未知の道は遠く感じる。

2007年10月10日水曜日

中道の厳しさ

ジレンマから逃げるな。ギリギリの選択を避けるな。中道主義はただの折衷案でなく、常に厳しいものなのだ。

2007年10月9日火曜日

善意と非難

自分が善意で行ったことが評価されず、逆に非難を浴びる。なかなか精神的にくるものであると今日はじめて知った。

ビラ

ビラを配る際、違うデザインのものも用意する。貰うとき真新しい感じがするため、複数枚もらってくれる可能性がある。

2007年10月8日月曜日

視覚

視覚には触覚作用もあるかもしれない。視線を感じることは、本当にあるからだ。

2007年10月7日日曜日

「思考の整理学」より

著者の外山滋比古は「たくさん覚え、たくさん忘れる」重要性をいう。

現代の英知だとおもう。

医療セット出前

発病時、必要なもの一式を送ってくれる出前。医療セットの出前便。できないものか? 一人暮らしで病気すると、食事すら満足にできないからな・・・

携帯考

電子辞書は、たいてい皆カバーに入れている。

同じくらいの金額の携帯電話は、カバーをつけない。

圧倒的にやすい本(特に文庫本)には、皆カバーをつける。

何故だ? 大事にすべきは携帯ではないのか? 本って、破れても読めるぞ? 携帯は壊れたらおしまいだぞ?

無意味なものにも、価値付けを!

無意味なものにも、価値付けを!

一見無意味なものから、多くの発見があった。無意味なものを「無価値」として切り捨てていては、新たな発見はないかもしれない。だからこそ、一見無意味に見えるものを、大事にしていく態度が必要となるだろう。意味がないからといって、なくしていい訳ではないからだ。

ドラえもんに出てくる空き地。大人から見れば、「売れ残りの土地」である。無意味な物件だ。しかし、子どもたちには大事な「遊び場」(テレビ朝日版「ドラえもん」は、いきなり「空き地がなくなる!」という、子どもにとってショッキングな出来事から始まったことを考えていただきたい)。

一見、無意味なものを切り捨てていくのはやめよう。邪魔なものでないなら、残そう。「変えて意味のないものは、変えないほうがいい」と兼好法師も行っている(「改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。『徒然草』第127段)。

教師像

教師が生徒に「これを覚えよ」という前に、自分が覚えているのか?
教師が生徒に「勉強しろ」という前に、自分が勉強しているのか?
教師が生徒に「ウソをつくな」という前に、自分がウソをついてはいないか?

教師はときたま、生徒に自分もできていないことを要求する。俺はその態度をやめたいと思う。教師なら、難しくとも自分の理想に挑戦している姿を生徒に示す。そして、「難しいけれど、僕も理想をかなえようと努力しているから、君たちも努力して行ってほしい」と訴えられる教師になりたい。

右も左も

右か左かよりも、「右も左も」のほうがいい。このほうが、豊かである。このバランスは信仰や哲学を根底に考えていけばいい。

めざめるパワー

眠いとき、いかに目を覚ますか。多くの人の悩みである。

私は
目薬、フリクス
にしているが…

ひとつより、ふたつ

ひとつより、ふたつのほうがいい。最近よくそう思う。

「これしか方法がない」より「他にも道がある」ほうがいい。

「こうでなければならない」よりも「こんな道もある」ほうがいい。

別の選択肢のある社会こそ、豊かな社会だと思うからだ。

言葉遊び

七三ならぬ、九七分け。

意外に同じくらいの髪型ではないだろうか。

チェリー

桜新橋にいった。街の名前をいかしてか、「チェリー新橋」というアパートがあった。

チェリーって…多分オレなら住まないな、と思った。

「オレ、チェリー新橋で同棲してるんだぜ」といえないしな。

2007年10月6日土曜日

アフィリエイト

このブログに、ようやくアフィリエイトをつけることに成功した。

説明文をよく見る。あたりまえだが自分で自分のサイト広告を見るのはルール違反らしい。

しっかりしている、と感じた。

発音

世界史の授業。こう聞くと、何故か先生のムアーウィアの発音が思い出される。
教育とは教えられたものをすべて忘れても残る何かである。こんなことばがある。ここでいう「何か」は、この発音かもしれぬ。

2007年10月5日金曜日

カッター

なかなか、最近つらい。スーツのまま2日過ごす。カッターシャツが若干でかい。次は首周り39cmのを買おう。ドンキホーテで500円のだと、やすくていいのだが、余り俺に合うサイズないからな…

2007年10月3日水曜日

自分がスーツ用の鞄を買うようになって、漸く周りのサラリーマンが案外安い鞄を使っていることがわかった。

2007年10月2日火曜日

2000万人

幼稚園から大学までの、幼児・児童・生徒・学生数=2015万人。日本人の6分の1。

2007年10月1日月曜日

席を譲る

電車内、席をお年寄りに譲ることはいわば共通見解だ
しかし電車では、例えば壁面部など「けっこうラクに立てる場所」もある。

そこは譲らなくていいのだろうか?

現在の教育

現在の日本では、はたして「個人の幸福を全く問わない教育」は行われているのだろうか。友人に言われ、気付いた。つい、国家主義的教育が行われているように考えていたからだ。

2007年9月30日日曜日

もっと自由に生きよう。

自分は昔から、「こうでなければならない」といった決まりを、たくさん作りつつ生きてきた気がする。人は絶対、呼び捨てすべきでない、丁寧な言葉遣いをすべきだ、下ネタを話すのは低レベルな話題だ、などなど。

多くは直っては来たが、まだまだいくつかは引きずっている。言語コードを豊かにする、との項でも書いたことである。

自分は多くの決まりを引きずってきている。すべてが善である、と信じて。しかし、善の基準は相手によって、場所によって異なる。友人との親しい関係を作るとき、呼び捨てできないのは大きなハンデとなる。つまり、自分の行動を起こすとき、譲れない「2%」にあたる部分以外は相手のことを考えて行動すべきなのだ。同じ事を伝えるのにも、多くの言い方・あらわし方・動き方がある。譲っていい98%を上手に使って、譲れない2%を伝えていけばいいのだ。

私は、いろいろな顔を見せながら、いろいろな方法・テクも使いつつ、なおかつ「これは死んでも伝えたい、表現したい!」とのやむにやまれぬ熱意を持って、生きていける自分になりたい。まずは、友人を呼び捨てできるようになりたい。より以上の仲の向上のために。

*参考として、原孝『その言い方では、人はついてこない』(PHP文庫)を使用した。

思い、と両立

「思い」「一念」の力は、形式的な「一日、~分を・・・に使おう」ということよりも重要である。「これをやり切るのだ」との熱い、強い決意は、単純な仕事割り振りとは異なる両立を達成できるはずだ。

両立に必要なものは、テクニックなどよりも思いである。「自分は絶対これをやり切るのだ!」との強い決意は、不可能を可能にするほどの力があるはずだ。

手帳はA5にすべきか

私は、ここ数年(中学3年から)ずっと「超・整理手帳」を愛用している。そのため、かなり前から、手帳=A5タテ半分サイズであった。

いま、私のメインのメモノートをA5サイズとした。この際、手帳もA5サイズにしようかと思う。そのほうが一覧性もあがるし、メモとの連動も簡単だ。難点は超整理手帳のよさである、スーツの内ポケットに入るというアドバンテージが使用できなくなることである。これは残念だ。また、リフィル使用時の見えない面が増えるのも難点である。あと、重大にして最大の問題点は、A5サイズのカバーは高い、ということである。これは残念だ。なかなか思い切ることができない。

やすいA5カバーを買って、新たに挑戦してみたい。

自分の振り返り

自分は、行動は出来る。論理だても出来る。私に必要なのは、行動・論理に感情・思い・祈りを込めることである。

「慈なくして詐り親しむ」ことになるからである。

2007年9月29日土曜日

代名詞

「先生」や「先輩」は、相手の名前がわからなくとも使用できる、便利な代名詞なのだとわかった。

コーヒー

急に寒くなった。

温かいコーヒーを買おうとした。

自販機すべてが「つめたーい」 表記であった。

2007年9月28日金曜日

スーツに運動靴

スーツに運動靴という服装になってしまった。まるで教師である。

教師っぽさは、「ちぐはぐなかっこう」で現れるのかも知れない。

教育の手段視

教育の手段視は人間の手段視に繋がっている。

ヘッドホンとイヤホン

ヘッドホンとイヤホンつけたまま、人と話すな!最近、俺はこう叫びたいことが多いのである。

「教育のための社会」メモ

子どもに対し、温かい社会。それが「教育のための社会」といえるのではないか。

いろいろ欠点を持つ子でも、鷲田清一風にいうなら「にもかかわらず愛される」ということである。


子どもの可能性を発揮する場を多く作る。
→イギリスの「ブックスタート」。0歳から5歳までの子どもに例外なく無料で絵本等の詰まったプレゼントを贈ること。政府が行っている。

ある本からの言葉

生きるということは、仕事をすることなんだよ。さて、その仕事だが、誰もやったことのない大仕事をするからには、誰も気づかない、考えたこともない気苦労があるものだ。

ガムシャラ

ガムシャラを漢字で書くと、

我武者羅

となる。ガムシャラっぽさの伝わる言葉だ。

自分は、限りなく朝に弱い。

休日はよく寝倒してしまう。

朝に勝って人生の勝利者に!

これをスローガンに、自己と戦って行きたい。

2007年9月26日水曜日

レズバー

新宿の2丁目に行けば、ホモの集まるバーがある。

また、現実にオカマバーもあれば、オナベバーもある。

では、レズバーはあるのだろうか?

カエサル式メール術

忙しい現代人。

来た、見た、勝った

という単純かつ明解なカエサルの手紙が、忙しさ改善の参考になるかもしれない。

余計な修飾語や前文等は省いてしまって、いいのではないか。

2007年9月24日月曜日

携帯ということ

携帯電話は今や沢山の機能を持った。

携帯電話の略としての「携帯」との語は、極めて適切な言葉であった。なぜなら、電話として使うことよりもそれ以外に携帯電話は使用されるようになったからである。

メールにテレビ、カメラ、ラジオ…

食事

食事には2つの種類がある。1つはただ単に食べるための食事。もう一つは楽しむための食事である。

前者は食欲を満たすという動物的欲求に基づくものだが、後者はスローフード運動が推進する形のものである。

ゴルバチョフのことば

新たな真のヒューマニズムは、人間が自分自身でありつづけること、自分らしくあることの権利を護るべきです。私は、この点が、従来のヒューマニズムと新しいヒューマニズムとの決定的な違いだと考えています。

「21世紀の精神の教訓」

2007年9月23日日曜日

ひとりじめ

ひとりじめのいちごミルク

という商品がある。

本当にうまいものなら人に勧めたくなるはずだが…

会話

人の会話を客観的に聞くと、かなり面白い。

今日、演劇にいって知った。

2007年9月22日土曜日

先生を選べ

最近、「先生を選べ」という本を友人宅で読んだ。

理由は忘れたが、

「あの先生のいうことだから、何か意味があるのだろう」と受け止めることが大切だ。自分の先生の発言や著作のヘキゲン節句をあげつらい、批判して「我賢し」、というのはあるべき姿ではない

とあった。そして「先生を批判するよりも、自分自身がその先生の理論を乗り越える」重要性を説いていた。

人との約束、自分は時々、寝ちぎる。理性が感性を支えられていない。

「やばい、寝てしまう」危険のある際は、早めに移動し、集合場所で寝る。寝てしまいそうなとき、自宅から出ることを習慣化したい。

いろんな人から、信頼を失っている気がする、睡魔によって。

2007年9月21日金曜日

アポと講演

2週間前にアポをとって講演に来て下さる人は、2週間前にアポを取っても来てくれるような人である。

修業

眠さに耐えるのも修業なのであろうか?

2007年9月20日木曜日

教育学「臨床の知」

教育学の「臨床の知」に、一番近いのは現場の教員ではないか。

山本周五郎の言葉

心に傷を持たない人間はつまらないように、失敗のない人生は味気ない。

2007年9月19日水曜日

風呂の決まり

なんか知らぬが、俺のいた寮では、変な決まりがある。

腰に巻くタオル。入浴時、落ちぬよう、洗濯挟みで継ぎ目をとめるのだ。

面白く、合理的な決まりであったものだ。

エルンスト・マッハ

エルンスト・マッハのメモを、自宅で再現してみた。

マッハのみた世界、それはマッハにとっての直接経験である。マッハがものを学ぶとき、写真に示した世界を見ているということを意味する。「客観的」だと思われるものも、結局は白黒で示したマッハの写真のように、「主観的」なものが前提になっている。

フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた。この場合、学問的であるためには、なんとしても、この光景に還元せねばならないのである。というのも、私たちは、この光景(あるいは表象)の外に出ることができないからであり、それにもかかわらず、その外に出られると考えるのは、非学問的だからである。
谷徹『これが現象学だ』(p47、2002年、講談社現代新書)

ちなみに、右のが私が試みた「私の直接経験」である。マッハの絵をもとにした。

2007年9月18日火曜日

プライスレス

モノより思い出より、経験。


これがプライスレスで、人生で最も役立つものでは? あと人間関係があれば完ぺき。

政変と雑誌と平常時

政変のとき、普段雑誌を買わない層は、「気になる!」と思って雑誌を買うのだろう。

何も事件のないとき、それでも売り上げを高めようとするため、デマやでっちあげ報道をしてでも、マスコミは自ら重要な事件をつくろうとするのかもしれない。

何もないなら、わざわざ雑誌を作らずともよいのではないだろうか。報道自体が自己目的化していないか。

積分

自分は積分的生き方をしているかも知れぬ。

すべてに於いて、ワカッタツモリになっている。

2007年9月17日月曜日

修正液

ゴロ的に、「修正液がかかった」とは言いづらい。

聞き方によっては「精液」なので。

2007年9月16日日曜日

japan

japanとは、漆の意。

だからjapanをバッシングすると、かぶれるゼ。

落合

A「集合場所は落合駅にしようよ」
B「なんで?」
A「落合で落ち合いたいから」

2007年9月15日土曜日

下痢

下痢は起きてほしくない最悪のタイミングで、出現する。

入試、結婚式、バイト中、電車内。

まさにゲリラ的。だから下痢というのだろうか?

2007年9月14日金曜日

中国

中国論がよく語られる昨今である。

私はいろんな中国論を聞くが、ひとつ重要な点を外した議論が多いと思う。

それは中国には日本の10倍人がいる、という点だ。
中国製品叩きはいま多い。しかし、日本の10倍人がいるのだから日本の10倍不良品が出ても、半ば当然といえるのでないか。

犯罪者が仮に日本の10倍いても当然である。人口が10倍違うのだから。

軍事もしかり。日本はかなりの軍事大国。それでも人口は中国の10分の1。なら中国が日本の10倍の軍事を持たぬかぎり、中国のみを軍事大国と批判することはルール違反のはずだ。
人口が10倍違うのだから、浮浪者も悪人も仮に10倍いて当たり前である。

むしろ逆の面も見るべきだ。人口が10倍違うということは、日本より10倍天才がでて当然である。経済規模が10倍になっても不思議はない。

人口の視点を、我々は発想の根幹に置かぬと、本質が見えなくなるかもしれぬ。

シャッター

川柳

白銀に 輝いてる街 シャッター街

→自分の実家をもとにした。

マッハ

部屋に寝そべり、目の高さから足元を撮る。あっという間にマッハのメモになる。



女性専用車両

いつ見てもヒヤッとするので、時間外に「女性専用車両」と貼るのをやめてもらいたい。

2007年9月13日木曜日

今日聞いた、ちょっといいことば

「ギリギリセーフ」はギリギリアウトである。常に5分前の行動が当たり前。


2007年9月12日水曜日

たれながし

「九州 源泉たれながし温泉」

なる本があった。

たとえ事実としても、たれながしという言葉はあらぬ誤解・別のイメージを誘発するので改めた方が良いと思う。

4分の1

この状態、世間的には4分の1という。誇大広告ではないのか。

歌と世評

歌は世評を示す。高度成長の頃、無責任一代男という歌が流行った。

いま、この歌にあった「楽して儲けるスタイル」という風潮は依然として残っている。「この世で大事なものは タイミングに調子いいことに無責任」とあげているが、現代はこれ以上に無思索で短絡的・刹那的な風潮になっていないか。

道楽

学生の出来る最高の道楽は学問である。いくら金をかけても終わりがない。

環境問題とウソ

「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」を読んだ。

「環境に良さそう」、とか「リサイクルしよう」等と言われると、ああそうなのか、と納得してしまう。しかし、この本は「その環境政策は本当に理にかなっているのか」ということまで問いかける。そしてリサイクルに7倍のエネルギーがかかることや「実はペットボトルは燃やされている」こと、全く問題のないことをさも大問題であるかのように示しているという事実を突き付ける。環境政策には利権がからみ、本来行うべき石油使用の削減や食糧自給率の向上よりも、危険性や緊急性の乏しいリサイクルやダイオキシン対策へ人を走らせてしまう。部分的真理でなく、本質的な真理にまで真理追究をもとめる重要性を感じる。

筆者はこのような現状の元凶はマスコミと政府や利権団体にある、と指摘。悲しいことに科学的知見よりも「本当のようなこと」に騙される国民の姿を明らかにしている。

以下は本文から、印象的な内容を示したもの。

環境対策も弱者切り捨てである。ゴミ分別が細かくなると、ゴミの日に出せないほど忙しい人や遠くのゴミ捨て場まで歩けないお年寄りは困惑することになる。
環境教育は、誰にリサイクルの利益がくるのか、はっきりさせず、お上の言いなりで行われている。

無責任を破すること

真実を知らしめることは、無責任を破することにつながるか。私は繋がると思う。

少数弱者

金持ちがたたかれるとき、金持ちは少数数弱者となりうるのだろうか。

管理職になる教師の比率

校長になる教師の比率
→小学校6% 中4、2% 高2、1%

教頭になる教師の比率も、校長とほぼ同じ。

意外に、管理職になる教師は少ないのである。

平成13年度「学校教員統計調査報告書」より。

(笑)は笑えない

よく文章末にくる「(笑)」という語。いきなりすぎて笑えない。もともと笑えないところに付けている気がする。不要なら付けるな。

ブログ名の考察

私のブログの名、変更しようかと思っている。「リバーサイド・メモ」にでも。

理由は3点。
1、井上陽水の同名の曲から。
2、京都の哲学の道は川沿いである。つまり川辺を歩きつつ哲学する道なのだ。私も西田幾太郎のように歩きつつ思索する人間になりたい、と思って。
3、歴史的に真相を明かした河部メモのように、真実を明らかにして残すため。
まあ、しばらく現状維持ですが。

ニッポン無責任時代

今年は植木等が逝去した年である。その意味を込め、いま改めてニッポン無責任時代という映画とその主題歌を再検討してみたいと思う。

植木氏が人気者であった当時、「無責任」はどんな意味を持ったのか。現在、「無責任」はどんな意味をもつのか。映画公開当時の世相と現代を比較してみたい。

2007年9月11日火曜日

アルタ前の皮肉

皮肉ながら、アルタ前にいるとアルタビジョンは見ることが出来ないのに、ABCマートのCMはくっきり見える。

何でこうなるのだろう。

下から見たアルタビジョン

アルタ前では、何も見えない。アルタ前で待ち合わせする人が、一番長く見てくれそうなのに。

街頭テレビ

アルタビジョンのようなテレビ画面は、下から見えない。これでは待ち合わせの退屈を画面ではらすことができない。ALTA前で待ち合わせして実感した。

下から見えるようにしてもらえないのだろうか?

若松河田ステーション

若松河田駅にて撮影。この写真、盗撮行為になるのだろうか?

なるなら、ごめんなさい。未成年なので実名は放送されないはずなので。

言語コードを広げること

使える言語コードはなるべく多い方がいい。

標準語、方言、崩れた言い方、いろんな一人称名詞を使いこなして話したい。何故ならその分表現が豊かになるのだ。前に被抑圧者の方が言語コードが豊かになると書いた。そこから一歩飛躍し、自ら言語コードを広げる努力をしていきたい。

映画館睡眠

何故か知らぬが、映画館で寝るとすごく勿体ない気がする。

金を払っているからか。

最近、よく寝ているのだが…どうすればいいのだろうか?

2007年9月10日月曜日

研鑽、研鑽

教職を志す以上、自分にもわからないことは教えたくない。俺は社会科の免許を取る以上、いつでも政治や経済の動き、倫理や地理・歴史を生き生きと語れるようになりたい。そして尚且つわからないことはわからないと認め、生徒ともに考えていく。決して、わからないことをわかったかのように教えたくはない。

そのためには常に研鑽だ。学びに学んでやる。

表現欲

生活綴方という教育実践が、戦前・戦後に流行った。子どもの思うことを積極的に作文や詩で表せようとする取組である。

ある本に、「これは子どもに表現欲を持たせる実践である」とあった。

私はこの「表現欲」との言葉に印象を受けた。私がいまこの文を打っている原動力の、最適な説明であると感じたからだ。

かつての生活綴方は紙とペンであった。現代のそれはblogという形で実現可能かもしれない。

映画「ブラックブック」

今日、この映画を見た。WW2末期のドイツが舞台の反戦映画である。

従来の構図を覆し、「ナチの幹部にも良心があり、レジスタンスやユダヤ人の中にも悪魔がいる」ことを示している。

保身のため、終戦後すぐ連合軍に部下を売ったナチの大尉。慈悲の心を示すナチの中尉。仲間を売ったレジスタンス。人間の本性を追究する映画だ。

ナチスの幹部といえども、彼等が悪魔のように冷淡な人間であったわけでない。そのことを知った映画だった。

この映画は誰の心にも悪の命があり、同時に善の命のあることを示している。

自己の内面にあるグシャグシャした命を垣間見た気がした。

DS

自作川柳

電車内 横に一列 皆DS

本日の西武新宿線の光景なり。

2007年9月9日日曜日

寝たおす

気付けばいまのいままで寝ていた。虚しい。

寝る時間が少な過ぎても多すぎてもダメだという。

次回のミスを防ぐため、休日には何らかのアポをもって、寝るようにしたい。

無知の知

ソクラテスの無知の知。

自分も気付けば、かなり無責任によく知ってもいないことを話している。

もっと真理を求めねばならぬ。

睡眠

今日、気付けばマックで寝ていた。

なんか、凄く虚しい。

2007年9月8日土曜日

NPO教育行政監視委員会

教育行政を見張る・監視するNPO法人を作りたい。これが私の目標だ。

善が力を持つとは、悪を監視していくことである。

最近、小学校の学習時間が1割増えた。これには、文科省は何もしていないというようなクレームをそらす働きのある気がする。本当に教育行政は、子どもの幸せのために働いているのか? 感覚の問題ではなく、きちんと実地調査をした上で、見ていく必要がある。教育の専門家の知見のみではなく、専門家以外の意見も取り入れていく。無論、普通ならば気づかない小さなものでも、よい行政政策なら積極的に掘り出し、明らかにしていく。

学部学生中に作りたい。というか、俺が作る。

教育と漫画

教育の現場に立つなら、ペスタロッチらの本も大切だが、読むべきは子どもにウケている漫画である。

スラムダンク、ドラゴンボール、バキなど子どもが好きな漫画を読み、子どもと話をする。そこから開けるものもあるのではないか。
教育ボランティアでも大事なことであろう。


2007年9月7日金曜日

逆走エスカレーター

エスカレーターを下から逆に駆け登る。意外に難しく、怖いことが分かった。本気で、ヒヤッとする。

2007年9月6日木曜日

モアイ

いま丸ビルでモアイ展が行われている。今日友人と行ってきた。

立正安国論に、「誤った思想は国を滅ぼす」とある。イースター島に於いて、モアイは宗教心の発露であった。それが権力誇示の手段になり、モアイ作りが自己目的化した。もともとの宗教性が弱いため、モアイ作りに因る環境破壊が起きた。その後、内乱も、他国の侵略も起きている。

日本によりもイースター島のほうが、御書そのままの結果となったことに驚きを隠せない。

人々の信ずる思想・宗教が正しくない、あるいは哲学性の低いものであるとき、悲劇が起こる。イースター島でも、もっと環境との調和を説く思想がひろまっていれば、と思うのである。

歌と世評

不健全あるいは惰弱な歌が流行るとき、社会も悪くなるのではないか。

いろんな年に流行った歌を調べることが、その年に生きた人間の精神状態をはかることになるのではないか。

カラオケ

人はカラオケにいくと、数限りない歌の中からたった一つを選び、歌う。

このときその歌を選ぶ必然性といえるものがあるのではないか。つまり、Aという歌を選ぶ背景には、歌う人の生命状態とAという歌とのあいだに、何らかの共鳴する点があるのだと考える。

その人が何を歌うか。そこからその人の心理状態をしることが出来るのかも知れない。

たとえばいくら流行っている歌でも、自分に合わないという歌を人はうたわない。

田舎

逆説的だが、田舎にいるより都会のほうがよく運動する。

田舎の移動手段は車。都会は電車。電車は立つが車は座る。意外にも都会のほうがよく体を使う。

同様の理由で、都会人より田舎人のほうがCO2排出量が多い。田舎は自家用車、都会は公共交通機関。以上。

2007年9月4日火曜日

映画

映画から見た、アメリカ社会に思うこと。

アメリカでは窃盗が多そうなのに、当たり前のようにオープンカーに乗っている。普通の車より盗みやすそうなのに。

勉強

強いて勉めるのか勉強。だとすればそもそも勉強とは強制であり、楽しいわけがない。

だから勉強という否定的な語ではなく、もっと積極性溢れる「学び」「学習」の語を使っていくべきだ。

母校の誇り

よく早稲田の人は、自分の母校を誇る。校歌を誇る。であるならば母校である高校も誇りに思っていくべきだ。

自分もワセダを誇るのと同じ、あるいはそれ以上に出身高校を誇っていきたいと考える。

憲法

法律は国民の自由をおさえるためにあり、憲法は国の自由を抑えるためにある。だから国民は憲法を守る義務は全くない。

昨日知って、ウロコがおちた

2007年9月3日月曜日

アイスキュロスのことば

学習は苦悩から生まれる

中央線の遅れ

中野→国分寺にいくのに、快速が10分後、各停が5分前にでているとしよう。この状態では快速をまつほうが早い。

しかし、中央線が遅れ、今各停がでるなら、そちらのほうが早い。むしろ快速にのる本来のルートより早く到着する。

遅れたほうが早い事もあるのだ。中央線は難しい。

行動の中に思いを入れる

俺はまるで機械である。あらゆることを、単に作業としてとらえている。行動の中に、「何のため」という『思い』を込められていない。そして、単に「こなす」だけの生活である。自分で「何故こういうことをするのか」考えていない。「やらないよりまし」との理論を常に持ち、行動の意味を考えない。主体性なく、こなしている。

 これではいけないと、真剣に思う。「作業」を超えよ。もっと、行動の中に思いを入れていけ。

 この点ができるようになれば、自分はもっとすごい人間になれるはずだ。その姿を想像すると、興奮してくる。

 自分の一凶ともいえるこの点。何としても変えていく。
 

2007年9月2日日曜日

寝坊

久しぶりに昼まで寝ていた。寝れる幸せ・虚しさを同時におぼえる。

2007年9月1日土曜日

千と千尋の神隠しからの考察

はじめは挨拶や御礼も言えなかった千尋が、映画の中で人間的成長を遂げる。この急激さはカエル男やナメクジ女、魔女にも驚きとして映っていることだろう。

子どもの成長の急激さを思う。成長にはしかるべき環境と場に置かれたほうがよい、ということも。

フーコー思想の断面

知を権力と見なした。

かつて社会のなかにあふていた狂気は、近代になって精神病院に囲まれるようになった。

近代人は古代や中世のひとと違う見方をしているだけだ。人はその生きる時代に特有のものの見方にとらわれ、その外に出ることは出来ない。誰もが一定の思考の枠組みにとらわれている。

職人

職人には仕事道具がつきものだ。学生を学ぶ職人とみるならば(徒弟制がまだ学術界では生きている)、学生の仕事道具は何であろう。

筆記具、本、紙、パソコン、人脈ではないか。

このなかで個人の努力でグレードをあげれるものは、上げるべきである。

筆記具は、もっともレベルを上げやすい。

仕事道具たる筆記具に、学生はどれくらい気を配っているのだろう。仕事道具にこだわらないで、いい仕事つまり学問が出来るはずがないのである。

サルトル

サルトルの本名を、ずっとダンボール・サルトルだと思っていた。

2007年8月31日金曜日

都バス喜久井町

都バスの喜久井町駅ではアナウンスに「金光教早稲田教会入口はこちらでございます」と流れる。

これって、都が特定の宗教団体を保護してることにならないの?

インド仏教はなぜ滅んだか より

イスラムの侵入→ヒンドゥーと、抗ヒンドゥーの役割を持っていた仏教という2極構造がかわる→仏教のもつ抗ヒンドゥー的要素、イスラムに取って代わられる→インドに於ける仏教の政治的役割消滅

ロシアの数学者

サドーヴニチというモスクワ大の教授がある本で引用していた。数学にしか感心がなく、大教授でありながら、ながもちをベッドに4人共用の部屋に住み、給料をそっくり他人に渡してしまう男の話である。実在の人物だというので驚いたのを覚えている。

しかし今気付いた。自分はほとんど家におらず、ながもちしか持たない教授とほとんど同じ生き方をしているのでないか、と。

新宿

新宿はビジネス街。皆もとから遊んでねーよ、と思う。

2007年8月30日木曜日

トルストイのことば

よいことをすることができるのなら、今すぐそれをしなければならないことを思い出すがよい。なぜならば、機会は過ぎ去り二度と戻ってこないものだからである。

2007年8月29日水曜日

松屋の謎

カレーにみそ汁。なぜ松屋はこれをしている?

なんかおかしくないか。

遺伝

自分は自己の経験を絶対化し、それをもとに話すことが多い。

親譲りの悪弊だ。

アポリア

アポを取るのはアポリアである。

最近実感する。

あまり知られていないが、「21世紀への対話」という本は、講談社学術文庫に入っている。

教育のための社会

教育のための社会

との言葉がある。

また

教育の目的は、悪を斬るための善の力を教えること

というような言葉もある。

とすれば、「反・教育的なもの」が悪と言えるのではないか。

野菜生活

コンビニでは普通、1コ105円で売っている野菜生活。

マックでは1コ100円。マックのほうが安い。おまけに、いえば水ももらえる。

意外なところで、物事の逆転は起きている。

マニュアル

マニュアルのみでは、行動の他者性がなくなる。

マニュアル化しつつある現代こそ、他者性を失わないため、働く人の人間性が必要となるであろう。

2007年8月28日火曜日

慣れ

人は何にでも慣れる。だから忘恩になりやすいのではないか。

攻撃精神

(執念を持った人間が最後に勝つ。では執念とはなにか、の問いかけ後に)

「忍耐強く耐え抜くこと」は重要であるけれども、まだ受け身です。
さらにもう一重、強く深く「執拗なまでに攻め抜くこと」これを執念というのです。ここにこそ、勝利の活路は、必ず開けるのです。

「創立者の語らい16」より

一流

一流になる人は文句をいってはいられない。

勝敗

勝敗の分かれ目

「学び続けているかどうか」の1点にある。読むべき本を読み、学ぶべき人から学ぶ。

→「創立者の語らい16」

アニメの法則

長く放送されるアニメは、主人公の名がタイトルになっている。名探偵コナン、クレヨンしんちゃんなどが一例だ。

しかし、最近は例外がある。ポケットモンスターとワンピースである。

英語に何が必要か?

文法・訳読教育から、コミュニケーション英語への転換。

文法・長文を軽視すると、後に弊害がおこるかもしれない。ただでさえ、トッフルで日本人が失点しているのはグラマーなのだから。

睡魔

眠いとき、人間の視野・思考法は狭くなる。

鬱気味になる。

戦っている実感があることだけがプラス点だ。それは自己満足に過ぎないのだが。

2007年8月27日月曜日

良書

よく「良書をよめ」と聞く。

これは常に言い続けないことには、皆が油断し、すぐに楽な「読まない」選択をとろうとするからではないか。

言って下さる方には、申し訳ないかぎりである。

必要条件広辞苑の定義

PがなりたたなければQも成り立たないという関係があるとき、PをQの必要条件という。

→仮定と結論がどうのこうのという、数学の教科書よりわかりやすい定義だ。

人生の成功

一般に、高学歴の人が成功者になりやすいのは何故だろう。私は学ぶ力があるからだと考える。

お笑い芸人でいまも司会を続けている人は、学ぶ力のある人である。明石家さんまは自分のテレビ番組を全て録画、見て自身の芸を研究していると聞く。島田シンスケも同じだそうだ。

成功者は学ぶ人である、とするなら、高学歴が成功の十分条件だ。高学歴の人は少なくとも、学校の勉強は出来るからだ。

人生の成功も、その人が学べるか否かにかかっていると思う。和田秀樹があえて(高学歴を我が子にあたえなさい)というのも理由がないわけではない。

ウィンナコーヒー

喫茶店でしかのめないコーヒーがある。サイフォンなどいろいろあるがウィンナコーヒーはその際たるものだ。

しかし不思議だがスタバやドトールなど、大手のチェーンではウィンナコーヒーは飲めない。

もっと安く200円くらいで、飲めないものだろうか?メーカーさん、いいビジネスチャンスだと思うのでご検討ください。いまのだと高くてそう簡単に飲めないのです。

千と千尋の神隠しより

千尋は映画の中で成長した。でも親はそれを知らない。

これは子どもは親の知らないところで成長していることを示しているのではないか。

神隠しは昔からずっとあった。異界を子どもがさ迷う体験である(高橋勝先生の教育人間学だ) 。高橋先生に因ると異界は子どものそばにあるらしい。

かくれんぼで身をひそめるとき、子どもは生きているとも死んでいるとも言えぬ世界に存在する。これが異界だ。またこのゲームの「オニ」というのも、現実にない存在との出会いを意味する。

異界との出会いのなかからも、子どもは育つ。異界との出会いでしか学べないこともある。千と千尋は、このことをとく話かも知れぬ。

カオナシ

千と千尋の神隠し

カオナシは現代人の象徴。個性がなく、ジコチュウ。
このカオナシはゼニーバのところで手芸の手伝いをすることになった。

これは何を意味するか。現代人の救済には、誰かのために行動すること・なにか手に汗して行動することにある、とのメッセージでないか。ゼニーバも「魔法で何でもやると何にもならない」といってるし。

2007年8月26日日曜日

ハンカチ

ようやく、人前で青ハンカチを使っても、ツッコミを受けなくなって来た。

2007年8月25日土曜日

自分が勝つと、師はもっと偉大になる。訓練を受けている人間であるならば。戦いの好き嫌い・自信の有無に関係なく、やるしかない。自分が勝つと、先生の勝利を体現できる。

苦しいことがなければ、訓練を受けなければ、人は偉大になれない。最近、「やりたくないことはやらなくていい」という、悪しき自由主義・放任主義がいきわたっている。いまはいいかも知れぬが、人生は長い。残りの生涯、どうすごすのか?

苦しいことがあっても、やりぬく。

「足元の蟻」感覚

ふと足元を見ると、蟻が大量にいて思わず驚く感覚。

当たり前だと感じていたもののあらたな一面を見つけるような感覚だ。旅をするのも、本を読むのも、そういった感覚を味わいたいからの行動であるかもしれない。

浜離宮

ここはセミと都心を走る車の音がミックスした空間である。

都会の真ん中の公園というのもいいものだ。


池を見ていると魚が跳ねているのがみえる。

浜離宮

ここはセミと都心を走る車の音がミックスした空間である。

都会の真ん中の公園というのもいいものだ。

築地市場

朝から築地にいった。朝いちでどこかに遊びに行くというのは楽しく朝に勝てる、いい方法だとおもう。

2007年8月24日金曜日

講演のとき、水を運んでくるひとがいる。受け取るとき、会釈して受け取るほうがいいのか何も言わないほうがいいのか、どちらだろう?

カベ

目の前の壁と格闘もできない人間が、偉大な人間になれるわけがない。こういうことを強く感じる。

いま、真剣に戦えずして、「いざ」というとき、将来の夢が叶うときに戦えるわけがない。このこともいま強く感じる。

広告

電車で「アサヒスタイルフリーの売り上げ、1億5000万本突破」と出ていた。

たとえ数値上では「日本人なら一度は飲んだことがある」といえそうだが、未成年の飲酒を認める発言になりそうなのであえて言っていない。アサヒビール内でこういうやり取りがあったのかも知れぬ。

2007年8月23日木曜日

エマソンのことば

全力を尽くすのだ。それが君のすべてではないか。

ある思想家のことば

「偉大な思想」があるかどうかです。それで「教育の質」は決まってしまう。

利き手以外書き

眠いとき、怠いとき、利き手以外で字を書くと、意外に頭がスッキリする。今日発見した。

方言

方言をしゃべる者は標準語社会では抑圧を受ける。しかし方言話者は方言と共に標準語も話せる。そして結局は方言話者のほうがつかう言語コードが豊かになる。

方言を話せるということは、もう一つの言語コードをもつということである。

青山

青山は、もともとお墓を意味していた。

だから「青山霊園」は「お墓お墓」ということである。

徒然草より

改めても得にならないとこは、改めないほうがいい。

→最近の私の座右の銘である。教育行政一般にも言えることである。
現代人はとかく物事に手をかけつづける。物事の本末転倒もそこから起きている。
今一度、「なんのためにこれをするのか」の確認が必要であろう。

ひとりぐらし

総じて、一人暮しから学ぶことは多い。

掃除機

寝る直前に掃除機をかけると、咳込んでしまい、寝られないと気付く。

レオナルドのことば

性急は愚かさの母である。

→迅速と性急はどうちがう?

2007年8月22日水曜日

カレーの辛さ表示

カレーの辛さ表示、全国共通に出来ないのか?

ある思想家のことば

未来を開き、未来を育むといっても、その主体は「人間」にあるといってよい。「人間」をつくりあげる事業こそ、すなわち教育にほかなりません。「人間」の内なる無限の可能性を開き鍛え、そのエネルギーを価値の創造へと導くものです。いわば教育は、社会を開き、時代を決する「根源の力」であります。

なぜ物語には悪い大臣がでるのか

リボンの騎士にも、ドラえもんの映画「のびたの大魔境」にも、玉座をねらう悪い大臣が出てくる。

なぜ、あえてこのような者を大臣にしているのか?私は社会学の用語である「コアプテーション」がヒントになると思う。

対抗勢力を敵視せず、あえて自分の陣営に取り込むこと、それがコアプテーションだ。

国内をまとめるため、あえて政敵を大臣とし、大臣派の人々を懐柔した王様。しかし大臣は王を目指す。ここからさきほどの物語が始まる。


現実社会にもこれがあり、自民党の旧派閥が該当するだろう。

クイズ

会社内で、クーラーの温度を28度設定する会社の方針に反対している人は誰か?

答え・労働組合(レイボー・ユニオン)

まずいもの・うまいもの

モンテクリスト伯という小説に、次のような一文がある。

子どものときに、またはじめて食すときまずいものが、しばらくすると珍味としてもてはやされるようになる、と。

ビールに始まり、牡蠣、雲丹、煙草など多くのものが該当するだろう。

私は豆乳もそのひとつでないかと思うようになった。

批判

批判するのは人の自由である。しかし私は何も表現しない批判者よりも、批判されつつも表現する側にまわりたい。

稲の花

知られていないが、稲には花が咲く。写真の白いのがそれである。私の実家で撮影した。


実物に触れないとわからないものがある。そこで暮らさないと見えないものがある。

教育における多様な経験の重要性を思う。

「ヴィジュアル時代の発想法」

引用。

「情報の価値とは何でしょう。
それは関係性にあると思います。
個別の情報ではなく、それらが出会い、溶け合い、融合したところから、新しい生命を持った情報が生まれる。それこそが価値となるのです。」

→創造における、直感や偶然の復権を説いた本である。

2007年8月21日火曜日

158

早稲田そばにある

いちご屋

という店。実は21種類ものオリジナルハンバーガーが人気で、マニアを唸らせているそうだ。

ただ元気と叫んでいるだけではない。是非いってみてほしい。

顔文字

メールを書いているとき、書いた顔文字と同じ表情を人はしていない。

たとえば

p(^^)q

なんて、やってるわけがない。

学問

教室の中だけが、学問ではない。バイト先にも、映画の中にも、学問がある。

ただ書物による学問のほうが若干高級なだけだ。

エッセイ

いつかエッセイ集を出すときがあれば、タイトルを「父上、いかにのたもうも」にしたい。

旅行記をもとにした授業

京都などに教師がいく際、写真を撮ってくる。

後日それをスライドショーしつつ、教科書ではわかりにくいことを、教師の経験とビジュアルをもちい、解説する。

地理や歴史、政経など多くの社会科科目で活用できる。

生きた学問を伝えられる。それに教師の経験を話せるので、授業が生き生きする。

2007年8月20日月曜日

野党

万年野党は不必要です。

歩きながら考えるツール

携帯は歩きながら考える・字を書くのに最適なツールである。

片手でかける、字が暴れない、帰宅後すぐに文章化できる。

実際、この文章は西田幾太郎ゆかりの哲学の道を南禅寺に歩みつつ、書いている。

もう少し技術があがればブラインドタッチも可能になるのだが…

京都の地名

京都では寺院の名前が、そのまま地名になっているところがある。

例・銀閣寺

銀閣寺

私が銀閣寺についたとき、既に見学時間は終わっていた。銀閣寺へのみちも、シャッター街となっている。

まあ、いいか。哲学の道はいけそうだし。

ドトール

ガソリンスタンドに、ドトールコーヒーがテナントとして入っていた。

面白い。

京都御所

京都御苑は広い。ここはもはやランニング・スポットである。

京都

ラーメンズのネタの中で「京都の人口の半分は仏像、もう半分が修学旅行生」とあった。


今日行ってわかったのは仏像3分の1、修学旅行生3分の1、残り3分の1は外国人だ、ということだった。

阪大の門

無門の門を自称するくせして、早稲田には校門があり、夜は閉じている。

何も知られていないが、大阪大学には門がない。夜でも敷地に入れる。

教育委員会は子どものためにあるとする。だとすれば建物の外装も子どもが気軽に来れるようなものでないと行けないのではないか。相談に行きにくい雰囲気のスクールカウンセラー室が溢れる現在の学校と等しくしてはならない。

ネオファウスト

なぜ手塚がネオファウストを書いたのか。

知識探求をし続けることが幸福に繋がらない。ゲーテの時代からのテーゼがまだ続いている、といいたいからではないか?



駿台、暗黙のルール

めざすなら、夏は駿台。

遊んでしまったら、春は駿河台。

京都駅テヅカワールド

京都駅に手塚治虫のちょっとした博物館がある。しげしげと、観光を忘れ小1時間「ネオファウスト」を読んでいた。

未完の書である。続きを読みたかった。

それにしてもゲーテをもとに漫画を書くという、手塚治虫の思い切りのよさに感銘をうける。ゲーテを引用することは私にも出来るが、ゲーテをまくらに話を組み立てることはそう出来るわけではないからだ。漫画の神様にしか出来ぬことであろう。

トートバッグ

旅行に行くとき、トートバッグがあると便利である。

お土産いれるとき、大きな荷物をロッカーにいれ財布やカメラを運ぶとき、ゴミを別に分けるとき

…多くの使い方がある。あると便利、ないと不便。今日私は京都観光。無くて困っている。どこかで買おうか?

「養生訓」

貝原益軒の著作「養生訓」には、いかにすれば長寿できるかが項目別に書かれている。貝原の実践にもとづいているそうだ。

限りある命を、養生する方法をしらないまま、無駄にするのは自殺と同じ。この貝原の指摘にハッとした。

この本のすごいところは「長生きしたいなら、若いときに性行為をやりまくってはならない」とまともに書いているところである。最近のどの本にも「ここまでストレートに書かないだろう」というくらい、明確に書いている。

自分が真実と思うことを言い切る。貝原の姿からその重要性を感じた。

ものの言い方

ものには言い方がある。これを私は高2で学んだ。

2007年8月19日日曜日

学習と自己目的化

学習の場において、自己目的化が多い気がする。

子どものノートとり、参考書への過度のマーキング、下線引くのにわざわざ定規を使う、線を引いて消せばいいものをわざわざ消しゴムで消し、ボールペンでいいのにシャーペンでカシャカシャ無駄な芯出しの苦労をする。

何かあてはまることはないだろうか?

全て、学習には何の関係もない行為である。何でこんな無駄をするのか。学校の教師の学び方が下手で、効率のいい学習法を提示できない点に問題があるのでないか。

1984

洋書でオーウェルの「1984」を読んだ。といっても、学習者用に易しくなっている本だ。

筋はわかる。しかし、英語力のなさがたかり、細部は読み取れなかった。

結局、「読了のための読書」になってしまった。読書の自己目的化である。これでよいのだろうか?

カントが死の床でいったように「これでよいのだ」といいきれれば楽であるのだが。

新高山

(わかる人にもわからないネタ)

ニイタカヤマノボレ

英語で言うと?

マウンテン・ドゥー

失敗学

失敗をするほどに、成功は近づく。しかしそのためには失敗から学ぶ姿勢が欠かせない。

チンダル現象

宮沢賢治のいう「光でできたパイプオルガン」のこと。光の通過する線の中にある無数の粒子に光が反射して、光の存在を示す現象。雨上がりの後などに見られる。

ネットワーク社会のゆくえ

高度なネットワークは田舎にまで張り巡らされた。田舎にいながら、社会と繋がることが可能となった。

過疎の進む田舎と社会が繋がったのである。これは何を意味するのか。

まずかつては都市でしか享受することの出来なかったサービスを田舎で得ることが出来る。過疎化しても、都市と繋がりを持つことが可能になる。Uターンしてくることも容易になる。

文明の発達は都市化と過疎化をうんだ。ネットワーク化はその矛盾を埋める存在であるかもしれない。いや、過疎・過密を防ぐため、断じてそのような働きを持たせるべきである。


2007年8月18日土曜日

田舎

田舎の空気はきれい。無責任に人はそういう。しかし、田舎の子どもは農薬の香りを嫌になるくらい知っている。

あの、何とも言い難い少し甘みを感じる臭い。都会人はほとんど知らぬ。

写メール

写メールの高さに、ようやく気付いた。

2007年8月17日金曜日

ゴルゴとブラック・ジャック

両者は非常によく似ているが、1点違いあり。

笑うか、笑わぬかである。

田舎の価値、都会の価値

田舎にいく。そこに価値を感じられない人は、都会の本当の価値を気付くことも出来ないのではないか。

2007年8月16日木曜日

ドストエフスキーの言葉

君たち、仮に人間は馬鹿でないとしよう。(中略)しかし、たとえ馬鹿でないとしても、呆れるほど感謝の念がない。桁外れの恩知らずだ。人間に最もふさわしい定義は、恩知らずの二本足だ、と俺は思っているくらいなんだ。しかし、これだけじゃない。これはまだ人間の主要な欠点ではない。最も重要な欠点は、絶え間なき善行の不在だ。(「地下室の手記」より)

林竹二のことば

学ぶとは、何かが変わることである。

2007年8月15日水曜日

パリ、テキサス的世界

自分は不意にすべてを投げ捨てどこかに行きたくなる。映画「パリ、テキサス」 のラストに同じ。

自分の精神的弱さが原因か。

七三

七三の嫌いな人へ…

オーシャンことジョージ=クルーニーも七三ですよ?

小牧治著『カント』(清水書院)より

そもそもわたしが、カントの考え方に感激したのは、つぎのことだった。すなわち、この世の幸福を追うのではなく、その幸福を受けるに値すること、つまり、道徳的義務の命令(純粋な理性の要求)にしたがうこと、それを、人間の尊さの源泉としたことだった。(p18)
→幸福になること自体でなく、幸福になるだけの行動をすることが重要なのだ。

人は、人事をつくして、しかもつくしえない自己をなげくとき、かえってそこで、「人事をつくして天命をまつ」の境にふれるのである。天助としての神を望むことがゆるされるのである。あらんかぎりの努力をするとき、自らの物理的能力のうちにないものが、より高い存在である神の協力によって補われるのを、望みうるのである。それこそは、純粋理性の信仰とも称しえよう。ここから宗教への道も通じるのである。(p185)
→神頼み的宗教は、無意味である。努力したことを最大限に発揮するために、宗教があるのではないか。よく仏法は道理といわれるゆえんであるのでないか。

2007年8月14日火曜日

blog

blogは自己目的化する。

一般に、自己目的化を防ぐのは難しい。

本の一節

詰め込み教育は、詰め込んでいない

効率主義に対しての批判は、効率が上がっていないために起こる

教科書は厚いほうがいい

詰め込みや理解重視か、受け身型学習かそうでないかという2者択一の思考でなく、学習者にとってどちらが学習しやすいかを問うべきである。

勉強法のワナ

どこの予備校にも、勉強法専門家然とした学生がいる。この人たち、何故か受からない。

方法論は、自己目的化する傾向性がある。方法を知っても実行しなくなるのだ。

受験生は勉強法の本にはまる。私も和田秀樹に始まり柴田氏などにうつっていった。そして気付く。勉強、ほとんどしてないじゃん、と。

方法を知った方が、効率は上がる。大事なのは何のための方法論か忘れず、方法論にもてあそばれないようにすることだ。

モンテーニュのエセーに、

自分は猫と遊んでいるが、本当は私が猫に遊ばれているのでは

という一節がある。方法論はあくまで方法論なのだとの自覚を忘れてはならないだろう。

2007年8月13日月曜日

一人暮しの虚しさ

一人暮しなのに家出する

某賃貸業者の広告にあった。始め、実感しなかったが、今よく思う。

家に帰っても何もプラスがない、寝るしかない。家にいても虚しい。一人暮らしでは常に思う。

異業種の交流

無印には、通常の店には売っていないものが多い。発想が他と違うのだ。異業種交流というわけではないが、異視点の発想が思わぬ成功を呼ぶことがある。

人間主義とは、使う人のことを最大に尊重する立場である。人間主義のためには各業界の枠を越えた、新たな視点からの発想が、固定観念を破る上で役に立つのかも知れない。

ゴミ袋

ゴミ袋に絵を描く。するとゴミ=汚いとの発想がかわり、ゴミについて新たな取組が出来るようになる。

無印のカタログから引っ張って来た。デザインの持つ重要性を感じる。

アイデア・本コンシェルジュ

どんな本を読むといいか、またどの本が自分にあうか教えてくれる職業。

司書さんとどうちがうのか。これは難しい定義だ。一つ言えるのは、このコンシェルジュの人は事務所を自分で持っている点か。

映画の存在価値

自分は不意に映画やDVDを見たくなる。

1、疲れたがまだ寝るには早いとき
2、思考が停止したとき
3、寂しいとき

心の治療薬が、私にとっての映画なのだろうか?淀川さんも「皆が毎日映画を見ると、社会はもっと良くなる」といっていた。



ピアジェ

新宿伊勢丹でピアジェ展がある、ときいた。スイスの心理学者のことと思い、見に行った。教育学用語事典で調べながら。

いって驚いた。何百万もの値札の着いたピアジェのアクセサリーを展示していたからだ。

痛恨のミスであった。

大学名の研究

大学名の研究。大学名で多いパターンは、

1、地名(東大・早大など。最近流行りの「国際」も入る)
2、元号(慶大・明大など)
3、固有名詞(上智大・同大など)

この3つを組合せているようである。

一般的に、1は指す面積が狭いほど、2は元号が古いほど、よい大学となるらしい。

猪苗代湖

ぱっと見、海のように見える、猪苗代湖。ついつい湖水浴でなく、海水浴といってしまう自分がいた。


あいずライナー

今日は東北に来ている。郡山から猪苗代にいくためあいずライナーに乗っている。いやはや甲子園→東京→東北はいささか辛い。

このライナー、新幹線の席より快適。リクライニングで座席も動く。なかなかハイテクだ。

2007年8月12日日曜日

湖と自己

自分の存在に関わらず、自分のいる組織・集団には後輩や部下がいる。それらの人は自分以外の人が担当するなら、もっと成長しているかもしれない。しかし自分がいる。必死にやらないことは罪である。自分の存在に関わらず、部員さんはいる。

今日は猪苗代湖にきた。この湖で泳いだ。かなり大きい湖だ。この湖も、自分の存在に関わらず、存在している。だとすればやはり自分にもてる全ての力を出し切るべきである。微力を傾けるのだ。

2007年8月11日土曜日

ちょい重要文化財

最近、重要文化財という語をよく聞く。しかし1点疑問あり。重要とは、何を基準にした重要性か? 国民のためとはいうが、具体的にどれくらい国民の役に立つのか?

なんでも重要と言わず「ちょい重要文化財」とでもいえばいいのかも知れぬ。

これからの哲学に求められるもの

これからの哲学に求められるもの、それは「走りながら考える」姿勢ではないか。

以心伝心?

「伝わるはず」「理解されるはず」では、伝わらない。自分のみの私的言葉遣いを排し、よりわかりやすい言葉で何回も伝えていくことが必要だ。報告・連絡・相談を徹底することだ。

2007年8月10日金曜日

海外に行かずとも

海外に行かずとも、貧困の実態は公園のテントでわかる。見過ごしているだけだ。

海外にいって世界の貧困がわかったという御仁は、その実何も本質を見ていないのではないか。

足下を掘れ、そこに泉あり。先ず櫂より始めよ。先賢の教え、軽んず可からず。

2007年8月8日水曜日

ある思想家の言葉

「自分は【幸福青年】である。苦労それ自体が幸福なのだ」。こう思える境涯になっていただきたい。そのほうが賢明である。

周恩来の言葉

人は気力さえあれば、どこにいても学問を求めることができる。

デューイの言葉

人間は戦わねばならない。困難こそ、進歩するためのチャンスとなるのだ。

教育に必要なもの

具体性こそ、教育に必要。

トルストイの言葉

知識は、手段であって、目的ではない。

ペリンスキーの言葉

人間性とは、人類愛のことである。それは、自覚や教育によって育まれるものである。

モテること

モテない、ということは、一つの利点かもしれない。異性関係で悩むことが無くなるから。

2007年8月7日火曜日

義家弘介の言葉。教育の定義

「教育は利益産業ではない。そしてそれを司る場所の一つが学校であるならば、教師たちは効率を優先させて生徒たちを置き去りにしてはならない。労を惜しんではならない。生徒と関わり、本気になって生き方を迫る、それ以上に大切なものなどありえない。私はこの北星余市高校という場所でであった教師たちの背中を見て、それを学んできた。」

「教育とは『権威や制度』による導きなどではけっしてない。教育とは『真の思いと情熱』の導きに他ならない。私は決して忘れない。私自身が、泥だらけの真っ直ぐな思いだけに救われながら、今日まで歩んできた不良少年だったことを・・・。」

「教育とは可能性を持つ者に感動を与えてもらえる、すばらしい営みなのである。」

「教育とは儚いものである・・・。」

「優しさと甘さは違う。教育とは厳しいものである。しかし反面、それは何よりも暖かいものでもある。教育とは人類の未来を創造する、もっとも崇高な営みなのである。」

→いずれも『ヤンキー、母校に生きる』より。

ある思想家の言葉

 挑戦の歩みを止めない限り、たとえ、その時は頂上にまで辿りつけなくとも、足腰は鍛えられる。そして、その鍛錬が、更なる登攀(とうはん)への底力となって活かされていく。
 精神闘争の長征に、徒労や無駄は、一切ないのであります。
 ゆえに、皆さんは、決して、立ち止まってはならない。
 絶対に、あきらめてはならない。
 焦らず、聡明に、「時」を待ち、「時」を創る忍耐にこそ、最後に勝ちゆく人生勝利の要諦があることを忘れないでください。

安河内哲也の言葉

 教えることの究極の目的は、自分で勉強できる力を育てることです。つまり、自主性を育てること。隅から隅まで丁寧に教えれば、講義がつまらなくなるデメリットに加え、受講生が自分で考えようとしなくなってしまう危険性もあります。
 どのような技能を教えるにしろ、特定の人間を永遠に教えつづけることはできません。教えたあとには「自立」してもらう。生徒の自立を支援するのも講師の重要な役割のひとつだと、私は考えています。(『できる人の教え方』)


→育てない「教育」ならぬ「教教」が、増えている。モンスターペアレント、マニュアル型教育はその一例だ。教育は、教える側の自己満足のための営みではない。被教育者の利益に適わなければならぬはずだ。近年軽視されてきた「自立」のための教育が必要である。貝原益軒も『養生訓』で溺愛の危険性を説いている。いまも昔も、真に子どものためになる教育(教教、にあらず)が不足している。

よく分からない商売

最近、いつも思う。グーグルやミクシーはどうやって、収益を得ているのか、と。「さおだけ屋」でなく、この2つの会社がどうやって稼いでいるのかを、誰か教えていただけないだろうか。

ヤフーは、巨大ポータルサイト化した感がある。広告収益もすごそうだ。しかし、グーグルはそのシンプルな見た目上、広告収益がありそうな気がしない。このブログはグーグルのサービスで作っているだけに、日々実感している。

世のなか、身近な部分に分からないことが多い。「無知の知」という奴だ。

友人が「死にたい」と言ってきた

突然の電話。親友からだ。「もしもし?」出る。

友人「オレ、死にたいんだけど…。今、自殺するため北海道にいる」

この時、自分はどう反応するか?

1、「バカヤロ−、死ぬんじゃねえ」という。

2、「一体、何があったの?」と尋ねる。

3、「勝手にすれば」と突き放す。

今日、ある親しい人から「もしこんなことがあったら、君どうする?」と言って、この話を聞いた。自分なら2の返答法をしそうだ、と返した。

その人の返答は違った。「今そこに行くから、待っていろ!」が返答だった。

思わず「カッコイイ」と感動した。

人の心を打つのは、言葉より行動だ。言葉は嘘をつく。行動は嘘をつかない。本当に訴えたいことがあるなら、行動こそが必要なのだと知った。

マックのヒトコマ

A「おまえ、トレーを燃えないゴミに捨てるなよ。」

過剰報道

今朝の新聞から。スキャンダル報道を、これだけの人が過剰と判断。確かに無くても社会は変わらない。

本当に大事なことを落し、本質はずれの物を大事にすることが多いのではないか。

2007年8月6日月曜日

スタ丼行きたいとき

スタ丼行きたいとき

スタ丼行きたいとき

着任終わったとき
一人が嫌になったとき
悪臭のする冷蔵庫を開けたくないとき
おごってもらえるとき
後輩におごるとき
道に迷ったとき
バイクを盗んで無責任に走り出したいとき
友人との関係、気付けば自分のみがいじられキャラになっていたとき
チャリパクされたとき
1限のテストを寝過ごしたとき
手帳を無くしたとき
思考が麻痺したとき
こんなしょうもないblogを疲弊する中書いてるとき…
スタ丼は自分の精神が危機に陥ったとき、何とか姿勢を持ち直させてくれる、病人食である

一人暮しすると解る

ことば

言葉にすることが難しいことを言葉にする。これはすごく難しい。でもやらないといけない。人権という言葉を例にする。人権がなにを指す言葉か、考え、表していく。そうしないで真の道徳教育は出来ない。何故なら言葉にしないで行動化する概念は、存在しないからである。

短い、短い話

自分は短文の組み合わせによる文章が好きだ。複文でなく、重文でもない短文。一つの意味のみをもつ単文が好きなのである。

わかりやすいからである。

ある思想家の言葉

アインシュタイン博士

真に偉大な人間になるための道は一つしかない。
何度もひどい目にあうという
試練の道だ

忍耐、忍耐

昨今、死語化した言葉がある。それが「忍耐」。

努力して、一事を成す心。たゆまぬ心。この精神が消えている。

学問も夢も、忍耐して努力することでしか成すことが出来ない。そして忍耐することで、はじめて自分が強くなれる。自分が思いもしなかった自分になれる。

しかるに、「タイゾー化する子どもたち」との本にあるとおり、現代は努力無しでいきなりの成功を狙う者が多い時代になった。忍耐が古臭くなった。今はこれでいいかも知れぬが、忍耐しない習慣が普通になればこの国はどうなってしまうのだろうか。

2007年8月5日日曜日

ボランティア

今日は学校ボランティア。入試説明会の役員なり。

休憩入れて一日、立て看そばに立つ。ずっと誘導・挨拶。

意外に、皆挨拶を返してくれる。これが1点目。子どもはかわいいと実感。子どもを必ず持ちたいと思う。これが2点目。ボランティアはさわやか。これが3点目。

やってよかった。

ドストエフスキーの言葉

神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。

ジュール・ルナールの言葉

幸福とは幸福をさがすことである。

2007年8月4日土曜日

プロクルステスの寝台

プロクルステスの寝台。物事を制度や決まりを気にするあまり、本質が見えなくなった状態をさす。

ギリシャ神話の盗賊プロクルステス。彼は客にベッドを薦める。客の足がベッドより出ればその分を切り、客の背がベッドより小さければ客の体をひっぱってのばす。ここからきた言葉である。

現代、プロクルステスの寝台的状況が多い気がする。
教育は、本当に子どものための制度になっているか。

ある思想家の言葉

教育は「学生のため」にある。「学生の目的を実現するため」にある。
教員には、そのための献身的責任感が必要であります。
学生を利用したり、学生を手段のように思ったりしては決してならない。
学生は「教えられる立場」であり、教員は「教える立場」であります。
それを本末転倒して、学生の向上を願わず、見下すのは、絶対に邪道であります。

ニーチェの言葉

「私がやっていることはいったい何なのか? そしてこの私はそれによって何を望んでいるのか?」−−これは、私たちが現在行っている教育では決して教えられることのない、したがって決して問われることのない真理の問いである。そんな暇がないのだ。


君の教育者は、君の解放者以外のものではありえない。


いつまでもただ弟子にとどまっているのでは、師の恩に報いることにならない。

2007年8月3日金曜日

教育者の誇り・喜び

理想の図書館作りと子供の教育に思いをよせ、道半ばで倒れたある司書の偲ぶ会=茨城・八千代http://news.livedoor.com/article/detail/3255779/


教育者にとっての幸福は、「自分が、他者の何らかの役に立った」との実感であろう。その思いを、私は下に記した無名の一司書から知ることができる。また、いろんな学校の創設者の思いや教師の喜びも、そこにあるのであろう。

教育は、もっとも人から感謝されやすい仕事であるかもしれない。

【PJ 2007年08月03日】- 7月29日、茨城県八千代町の図書館で『山中治雄を偲ぶ会』が開催された。・・・といっても、誰もが「山中治雄さんって?」と思うだろう。そう、昨年の7 月14日、48歳で癌のために帰らぬ人となった無名の一司書である。だが、山中さんの友人、知人は勿論、八千代町の図書館を利用してきた人、本の好きな人 の殆ど、町の子供の多くが、今も彼の志半ばの死を心から惜しんでいる。

 八千代町の図書館がオープンしたのは1999年7月であったが、決して順風満帆に立ち上がったわけではなかった。一部の町の実力者や町民の反対もあったし、政治的な思惑の渦に立ち往生しかけたこともあった。

 そういう中、町の公民館の図書室に勤務していた何人かの、本をこよなく愛する若者がどんな壁にも屈することなく、図書館設立に邁進していったのである。

 その中心となった若者の一人が、山中治雄さんであった。山中さんの盟友であり、ともに図書館設立に力を尽くした中村宏さんに偲ぶ会当日、山中さんのことについて伺った。

  「とにかく本と子供が好きな人でしたね。本というものが、子供の成長にかけがえのないものになることをよくわかっていて、だから、町に図書館を作ることへ の情熱は素晴らしいものがありました。90年代を代表する福岡の苅田図書館、近くには水海道図書館などを理想として、よく勉強していました」

 「ある時、『司書の仕事をしなかったら何になる?』と訊いたら、『教育研究所を立ち上げたい』と言ってました。町の子供たちの未来を案じていて、そこに自分も本気で関わっていきたかったんですね」

  「二年半前の12月28日、その年の仕事納めの日でした。気分が悪くなり救急車で病院へ・・・。この日から大腸がんとの闘いがはじまり、昨年の7月14 日、とうとう。彼は最後の最後まで諦めなかったと思いますよ。ずうっと明るかった。図書館と子供の教育の夢を語っていた」【了】

決意

高校時代の決意の持続は難しい。気付けば平凡な日々に埋没してしまう。

同志の励ましが肝心である。

ある思想家の言葉

人類数千年の文化遺産は、ことごとく諸君のために用意されている。したがって、知識に対しては貪欲でなければならない。

→学ぶことの重要性。

励まし

人を励ますと、元気が出る。これは限りなく真実に近いのではないか。

自分が悩んでいるときの他者への激励は、そのまま自己に対しての激励ともなる。自己に対し、語っている気がする。他者と同苦することで「辛いが自分もともに戦おう」と思える。

他者への励まし、それは自己への励ましでもあると知った。



同時に。教育こそ、最大の励ましではないか。子どもの可能性を信じ、それを引き出させる。そこには教師としての励ましが必要なはずだ。

デザイン

人のことを言えぬが、デザインの悪いことは犯罪である。

ある団体にしろ個人にしろ、そこの外発的アピールがデザインの悪い方法なら、誤解が生じてしまう。

だからデザインは考えないといけない。答案用紙もホームページも、デザインが悪いと読まれないのだ、いくらいいことを書いていても。

2007年8月2日木曜日

ダラダラ

今日、何もすることがなく、ダラダラ寝転んで過ごしてしまった。

家にいるかぎり、何も起こらない。こちらからのアクションがいる。

一先ず、外に出よう。バイトも重要である。

2007年8月1日水曜日

バイト

バイトを再開した。教師にたいする授業アンケートを集計するバイトだ。

中高生の教師観がくっきりと現れ、怖くなった。普通に「あいつウザイ」「担当替わってくれ」と書かれている。

しかし、反面プラスのアンケートもある。「~~先生のお陰で地理が好きになりました」など。

また、折衷の形でこんなものもある。ある教師には「話がつまらん」「無駄」と書いているアンケートに「~~先生の授業は聞いてためになる」とあった。教師というだけで、生徒が反発するのでない。ちゃんとその教師個々人で判断しているのである。

延々と続く打ち込みをしつつ、思索は深まる。3点、思いついた。

1点目。ある教科の好き嫌いは、たいていは教師の教え方にあるのではないか、ということ。

2点目。いまの子どもは授業を聞かないというけれど、面白い授業・ためになる授業はきちんと聞いているという事実を、受け止めるべきだということ。

3点目。教え方の工夫・教師の自己研鑽しだいで正当に評価を受ける教師という職業像をしったこと。教師という仕事が、自分の転職かもしれないと、まじめに考えたこと。

バイトで金をもらいながら、教育に対する思索や、「生徒から見た、あるべき教師像」を探る訓練をさせてもらえる。いいバイトを見つけたと、つくづく思った。

とはいえ、アンケートは「かける限りかいてください」といって渡される。一生懸命書く。しかし、それを打ち込む側からすれば「げ、こんなに書かなくてもいいのに」といやになる。アンケートの持つ「データ管理のため、打ち込まないといけない」特徴は、多大なマイナス要素かもれないと感じた。

2007年7月31日火曜日

学問という暇つぶし

夏休み、何もしないのは暇である。一人暮しではなおさらだ。

否定的意味合いが大きいが、逆にプラスの面もある。
古代ギリシャでは「暇=学問」であった。学問の原語のスコレがもともと暇を意味したのだ。

この有り余るヒマを、じょうずに使いたい。学問をするに限る。これは「サヨナラ、学校化社会」で上野千鶴子氏が語ったことでもある。学問は効率のよい暇潰しだ、と。やってもやってもおわりがないからだ。

2007年7月30日月曜日

ヤンキー、やはり議員になる

吉報に一転「ほっと」 当選のヤンキー先生

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007072901000896.html

予想通り、義家先生が当選した。

うーん、今週の義家のラジオ、聞かないとな。

 「ヤンキー先生」で知られ、安倍首相が唱える「教育再生」の看板役を務めた自民党比例代表の新人義家弘介氏(36)は、黒いスーツ姿で東京都千代田区の選挙事務所に姿を見せた。「当確」が一向に出ずに重い雰囲気が一時漂ったが、待ちに待った吉報にほっとした雰囲気に。

 その間、義家氏は複数のテレビ局のインタビューに応じ、選挙戦を振り返って「失業問題、年金問題という雲に、教育問題が隠されてしまった」と答えていた。

(共同)

海外に行こうと思えど

海外にいったことのある日本人とそうでない日本人。どっちが多いのだろう?

私のいる早大では、みな当たり前のように出ていっている。しかし全国的にはいったことのない人も多いはずだが…

ちなみに、私はパスポートを持ってはいない。

本読むバカが私は好きよ

本読むバカが私は好きよ

との名キャッチ。糸井氏が考案したものだ。

本を読むのって、現代という時代から見れば馬鹿な行為かもしれない。他に楽しいものが沢山あるから。勉強もしかりである。

それでも、あえて本を読み、勉強をする。この「あえて」という部分が、自己形成の上で重要なのであろう。何故なら勉強・読書で困難に耐える力を身につけ、強い自分になれるから。世の動きを半ば超越した形で、大きなスケールでものを見れるようになるから。

フランスの「行動する文化人」アンドレ・マルロー。彼は第二次対戦下、いつ空襲が来るかわからない夜道で、壮大な文化論を語った。文化は地中海からヨーロッパ大陸に広まった。次はここから太平洋に文化の中心は移るであろう、と。日常の事柄をはるかに越えた地点からものを見る。そこに読書や勉強の重要性がある。

地下鉄銀座線のフシギ

地下、というのに銀座線の渋谷駅は東急デパート3階に改札がある。地下といいつつ、高架を通る。

何故?

それは東京の山の手と下町で高さが違うから。渋谷はかつての谷にある。だから渋谷と谷の字がつくんだ。そして台地の地下を通る。そのとき当然、渋谷という谷底より上を通るんだ。

だから地上3階に地下鉄の駅がある。間違いない。

選挙

国民の声を聞いた、と選挙はいう。

しかし与党圧倒的不利の状況を現出し、演出したのも新聞メインのマスコミであった。

NIEの実践が叫ばれているが、そのもとにするマスコミが一斉に偏った視点を与えるとき、対処しようがないのではないか。

2007年7月29日日曜日

クリップボード

最近、マイブームの文房具がある。それはクリップボードである。

携帯簡単、シンプル、使いやすい、用途が多いといいとこずくめである。

メリット1 メモしやすい

メリット2 膝の上に置けば机がわりになり、本読み・書き物が電車内でもしやすい

メリット3 うちわになる
メリット4 お知らせしたい紙を飛ばないように押さえられる。

その他、多くの使い道が見つかる。だから常に鞄にいれ、使える機会がいつか考察中である。

それにしても、シンプルなものほど使い勝手や用途がいいのは何故だろう。クリップボードは下敷きにクリップが付いただけなのに。

ちなみに、100均でなく、文具店できちんとしたのを買った方が使いやすい。ほとんどの文具にあてはまることなれども。



私のよくやる会話 レストラン編

自分「ここのお勧めは何ですか?」
店員「ミラノ風ドリアが一番人気です」
自分「そうなんですか。じゃペペロンチーノ一つお願いします」
店員「………」

2007年7月28日土曜日

飲酒と小学生

小学生の10人に1人が定期的に飲酒=英メンタルヘルス財団
http://www.jc-press.com/kaigai/200707/072601.htm

 海外は、飲酒に対して甘い。下を読むと、「こいつはひどい」と思われるだろう。
 
 しかし、ビールは酒ではない、という国もある。軽いアルコールはほぼ黙認されているところもあるのだ。

 下の状況、ひょっとすると日本的感覚で「飲酒」にあたる行為が含まれていないのかもしれない。
英国メンタルヘルス財団は23日、小学生の10人に1人が定期的にお酒を飲んでいるというShools Health Education Unit(SHEU)の調査結果を明らかにした。
  調査は10~15歳までの生徒6万8千人を対象に実施。10~11歳では10%、12~13歳では19%が少なくとも1週間に1回は飲酒をしていた。 14~15歳の10人中4人が1週間続けて飲酒をしていた。お酒の購入先はスーパーや酒屋。調査マネジャーのデビッド・レジス博士は、「このようなこと (未成年に酒を売ること)は違法」と指摘するが、未成年へのお酒の販売は続いているようだ。

(2007年7月26日発信)

低脂肪乳

 人の乳房は、脂肪分である。

 ということは貧乳のことを「低脂肪乳」というのだろうか。

銭湯の持つ公共性

【コラム・断 講談師・神田茜】銭湯は教育の場http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070727/wdi070727001.htm

 銭湯のよさを、ここまで語る。でも、下の引用文でいっているのは、「銭湯で公共性を学べる」ことのみであって、「銭湯でないと学べない」と書いていない。
 
 たしかに、教育のためには多くの事物が必要だ。「教育のための社会」にとってなおさらである。が、あくまでこの事物は絶対性を持つわけではない。

 感覚で教育を語っているような気がして、しかたない。重要なことではあるのだが。

 銭湯が減っている。ここ数年で近所の銭湯が2軒なくなり、大変なショックをうけた。わが家ではたまに行く銭湯が、子どもたちの社会勉強の場所でもあったからだ。

 そこで他人とのかかわり方を知ることができた。体を洗ってから湯船につかる。立ったままお湯を掛けない。走らない。騒がない。体を仮拭きしてから上がる。それらの公共性を自然に身につけられ、自分の行動で迷惑をかけるひとがいるということを、実体験で学ぶことができた。

  勝手に水を入れて湯をぬるくすれば、怒鳴りつけるお年よりもいる。よく顔を会わせる大人たちとは叱ったり叱られたりが許される信頼関係ができる。電車の中 でいきなり知らないひとに怒られるのと、顔見知りに叱られるのとでは大きな違いだろう。地域の子供とかかわりたいのに機会がないという大人だって結構いる ものだ。

 子供にとっても、よその大人とふれあうことができる格好の場所ではないだろうか。男の子で あれば、大人の男をそこで学び、女の子もしかり。親としては生活をさらけ出すようなうっとうしさも感じるのだが、家庭内の親子だけの空間で道徳心や公共性 を教えることがどんなに難しいかも、身をもって感じている。しつけがなっていないことを親はせめられてばかりだが、親たちも公共性を学ぶ機会がなかった世 代なのだ。

 最近子供たちへの道徳教育の必要性が叫ばれているが、銭湯こそ子供にとって必要な場所ではないかと思う。流行(はや)りのスパや健康ランドのように、何も地下深くから温泉を汲(く)み上げなくても、近所で気軽に行ける銭湯がまた復活してほしい。(講談師・神田茜)

(2007/07/27 07:43)

ルソーの言葉

「子どもを不幸にする一番確実な方法は何か、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。」エミールより

ある思想家の言

 政治も経済も、学問も宗教も、社会の一切の営みは「人間」から出発し、「人間」に帰着する。また当然、そうでなければならない。
 しかしあまりにも、しばしば、目的であるはずの人間が手段と成り果てているのが現実であります。その転倒を、本来の「人間中心」の理想に戻し、新たなる社会の建設をしていかねばならない。

2007年7月27日金曜日

民主くん

民主くんをご存知だろうか?

ぱっと見たとき、私はセンスの悪さに驚いたのを覚えている。聞けば鈴木貫という議員が中心に考えたそう。

どうせ作るなら、デザイナーに頼んでもっとクオリティをあげろよ! 突っ込みたくて仕方がない。

これでよいのだろうか…

最近、いろんなことをしている。高校の部活の手伝い、友人との対話、学校ボランティアなどなど。

その中で、いつも「自分はこれでいいのだろうか」と考えてしまう。

自分の行動は、本当に意味を持つのか。人の役に立っているのか。邪魔になっていないか。他にもっとすべきこと・自分に相応しいものがあるのじゃないか。

その度、次のことを思い出す。「目の前の課題から逃げるな」「何もしないより、何かをしたほうがいい」「行動の中で少しずつ直していけばいい」

上記のように、バカボンのパパ的思考法も必要だ。これでいいのだ。なにもしないより、やったほうがいい。失敗は後の成功に繋がる。

とにかく前向きに。とにかく何でもいいから、やっていくべきなのだ。

ガマの油売りとテレビ

昨日、神楽坂の祭にいった。

大道芸・ガマの油売りをしていた。

道行く人を止め、刀パフォーマンスと話術でみせる技である。

喋り方に特徴があった。テレビのCM前同様、何分かおきに前にいったことをのべ、途中から来た人にもわかりやすくしている。

またテレビ的要素は他にもある。この芸のヤマは自らの腕を切る(ようにみせる)ところにあるが、最後の最後まで引っ張り、客を待たせる。

テレビと大道芸、意外に似ているところがある。テレビで大道芸特集をしても同じような構成になるであろう。

英単語「田舎」の覚え方

田舎の子どもはるーらる(rural)るーらると、泣く。

筆記用具による、学習の効率化

小学生は、よくおもちゃのような文房具を使う。キャラクター系のものだ。むろん、勉強が楽しくなるというメリットはある。しかし、いかんせん使い勝手が悪い。消しゴムは字を消せず、シャーペンはよく詰まる。

この傾向、中学飛び越え高校、大学、一般企業でも残る。使い勝手で文房具を選ばない。

文房具は、いわば仕事道具、戦争で言うなら武器である。手入れや選択を誤ること、これイコール死を意味する。時間を殺すことになっているのだ。

だから、勉強しよう、学ぼう、もっと仕事しようというなら、まず文房具を変えるべきである。

自分は、昔から文房具フェチであった。今でも、フラッと文具店に行ってしまう。そして何かしらいい文房具がないか探している。

自分のいま使っている「武器」は、
①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
である。

①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
→3年前から使用。あらゆる4色ペンのなかで、(まだラミー2000を買える境涯でないので、いまのところ)NO.1の完成度であると考える。4色ペンは、齋藤孝教授の『3色ボールペンで読む日本語』以来、使うようになった。4色色分けできると、もう筆箱は不要になる。
 このクリップ・オンには、シャープペンもついている。あらゆるシーンで活用できる。ポケットに1本、これがあるだけで、いつでも学べる。これは大きい。筆箱から色ペンを探す時間も節約できる。
 おまけに、このペンはクリップもこだわっている。金属性クリップだから、どこにも挟め、おまけに強い!
 一度使ってみて欲しい。もう、他のペンを持つ必要がなくなる。
 詳細は↓

クリップオンマルチ
http://www.zebra.co.jp/pro/clipon_multi/index.html


②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
→書き味が、超滑らか。一度使うと、病み付きになる。①とどう併用するか、考察中である。
 ちなみに、字の太さ1ミリタイプがお勧め。太いと引っ掛かりがほとんどなく、ジェットストリームらしさが存分に出ている。
 詳細は↓

ジェットストリーム
http://www.mpuni.co.jp/product/category/ball_pen/jetstream/index.html

 長くなってしまった。要は自分にあった文房具を探し出し、使ってみよということだ。
 文房具はいつも使うものだ。自分に合うものを使うほうが、ストレスなく使える。

このブログ、新たな方向性

別に「教育メイン」といっても、教育論だけというわけではない(もとからそうだ)。

これからは、「勉強法」についても書いていきたい。

2007年7月26日木曜日

リストカット

99ショップで買ったお菓子である。よく買う。

しかし、考えてみよう。

リスカって…

リストカットの省略形だ。
こんなのを社名にするのはセンスを疑う。

ヤンキー先生は議員先生になるか

昨日、高田馬場駅前でヤンキー先生こと義家氏が演説していた。

普通の議員と違い、「とにかく動くぞ」との勢い・情熱を感じた。

「ヤンキー、母校に生きる」も「母校北西余市を去るまで」も、自分は読んだ経験がある。なかなか、いいこと言うなー、と感心したのを覚えている。

しかし、教職と政治は違う。仮に議員になったとき、義家氏はどれだけ働けるのだろう。

義家氏は、周りがいうほど、無責任な人間ではないと思う。

だから結果を残すだろう、とは思う。

「私は教育に救われた人間です」
「子ども達が安心して失敗できる社会に」
「教育再生を」
この3つしか連呼していなかったのは気掛かりではある。設計図をもってるのかな?

握手してもらった義家氏の手は、当たり前だが他の人間の手と同じく、温かくもなく、やわらかくもなかった。

ある思想家の言

人間の生命には「善」もあれば「悪」もある。ゆえに人間は教育によって、善にもなれば悪にもなれる。日本の軍国主義教育がそうでした。悪を引き出し、戦争の道を進んだのです。ゆえに徹して、「人間のための教育」でなければならない。「人間の幸福と平和と自由のための教育」でなければならない。

ある思想家の言

「有能な人は、常に学ぶ人である」(ゲーテ)
(中略)
学ぶ人は偉大である。
学ばない人は卑しい。
そして、学ぶ人は'表現する人'でもある。充電と放電の関係といってもよい。貪欲に学ぶからこそ、沸騰するがごとく表現を欲する。

2007年7月25日水曜日

夏目漱石の言

「学問は綱渡りや皿廻しとは違ふ。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。」
→学問は、人間形成のためだ!


「何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは10年20年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。」
→自分にもっと適した仕事があるのではないか、と迷うことがある。そのためにあちこちうろうろする。結局、何も掘り当てることなく貴重な人生を費やしてしまう事が多い。だからこそ目の前の課題から逃げず、前進することが必要だ。

電車

電車内では異様に本が読める。逆に自由時間が沢山あっても本はあまり読めない学習も出来ない。

「自由からの逃走」との本がある。自由すぎると逆に不自由をもとめる内容だ。暇過ぎると学問は出来ないのかも知れない。


2007年7月24日火曜日

渋滞2割削減。一体どんな渋滞から削減されるのか。

数値化は確かにわかりやすい。しかしどうやって数値化しているかよくわからないことも多い。

何でも数値にすることは出来ない、との自覚も必要だ。 

教育はとくにそうである。学力低下論争も、学力がそれほど変化していないデータを使わない(そもそも学力は数値化可能かもわからない)。

2007年7月23日月曜日

朝に勝つと気持ちがいい。陰山英夫氏が

早寝・早起き・朝ご飯

を提唱するわけも、単に気持ちいいから、なのかも知れない。早く寝て、早く起き、朝を食べると頭が良くなることには、単に「きちんとした生活習慣のある家庭かどうか」くらいしか意味がない、ときいたことがある。また「朝食をやめて健康になる」との本もある。

陰山氏の活動も、単に気分でやっている、ということはないだろうか?

2007年7月22日日曜日

対話

今日一日、誰とも話さなかった。

何と言うか、ひたすら虚しい。これが1週間続けば気が狂ってしまう。

人のことを人間と書く。もとは「じんかん」とよんだらしい。文字通り、人が社会的存在であることを示す文字であると言えよう。人の間、と書くのだから。

その社会を成立させているのは、人と人との会話・対話である。

今日が虚しい理由は、対話不在にある。

現在、社会のあらゆるところに対話の不在を感じる。対話が不在のとき、空虚さを感じるわけがわかった気がする。

2007年7月21日土曜日

理性

腹が減ると、理性が麻痺する。

ひとり暮しをして、実感したことだ。

よく我々は

恵まれない子どものため、寄付を!

というが、このようなとりくみも、実感として餓えた経験がもとになっていないと、「先進国としてのエゴ」に犯されるのではないか。どんな崇高な取り組みも、「何のため」という活動の根本がズレたとき、方向性が悪くなる。

飢えた実感が、正しい援助につながる。今一度、自分の在り方を振り返りたい。

ここにいたのか、寺脇氏。「ゆとり教育」の顔。

「ゆとり教育」と教育改革の行方:1(寺脇教授)http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200707210220.html

 寺脇氏。文科省でゆとり教育を進めた人物。そして失権した人物。いま、大学教授をしていたとは思わなかった。
 
 彼は「単純に学力が低下したといってはいけない」というような発言をする。私も、確かにPICAの点数が下がったくらいでびくついていては、確固たる人間形成を教育でおこなえないと思う。また、確かに教育はそんなすぐに結果の出るものではないとは思う。
 しかし、寺脇氏の見方も、浅はかである。氏は、「ゆとり教育で、全員に百点を取らせて見せます。そうできなければ先生方の教え方がまずいといえます」などと発言していた。が、やがて前言を撤回している。
 単純に、教える量を減らせば子どもは学ぶようになる、という驕りが、寺脇氏に感じられてならない。子どもはそんなに単純な頭脳構造をしているわけではない。また学びの習慣化は、そんな簡単に発生するわけではない。佐藤学氏のいうように、子ども一人では理解の及ばない教材でも、他者とのふれあいの中で急速に学力が向上することもある。教師の言を聴けば、もっと手っ取り早く、「教える量の削減≠学びの習慣化」であると分かるはずである。
 寺脇氏には、ずるさを感じる。自分は正しい、という姿勢を崩すべきである。教育行政の実験台にされた子どもたち(いま大学2年の私もそうだ)がかわいそうではないか。一国の教育行政を背負っていた人物であるなら、もっと自分の行動に責任を持つべきだ。
 結論。教育行政は、早急に方向性を決めていいわけではない。また、この行政がきちんと子どものためになっているのか、考えていくべきである。失敗から学ぶ、とはきれいごとである。子どもの子ども時代は、二度と帰ってこない。新たな教育政策をするなら、「本当に子どもたちのためになるのか」よく考えてから行っていくべきである。

妹を食べる話

サントリー烏龍茶の広告。
萌えブームの中で見ると、危ない話にしか見えない。大手企業が新聞広告でいうほどのことなのか?

インディアン

努力、ウソつかない。

インディアン、ウソつかないのもじり。


不良言葉

勉強しねーと、見えねーもんがあんだよ。

不意に頭に浮かぶ。しかし本質をついてはいる。

河合氏、死去と兵庫県の反応

教育で先駆的取り組み 博学、ユーモアたっぷり
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000471677.shtml

 河合隼雄さんが、19日に死去。自分は兵庫出身ながら、河合氏が兵庫出身だと知らなかった。自分が中学時代に経験したトライやるウィーク(中学校での体験学習。地域の商店や企業に行き、職場体験を行う学習形態。兵庫県から実施)についても、かかわりがあったとは。

トライやるウィークって知ってますか?http://www.wmstyle.jp/archives/2004/11/29_102343.php

 人間、死んでから初めて「あ、あの人こんなことしてたんだ」と気づかれることがあると実感。

 教育界にも業績のあった、河合氏。しかし、何も知らない人に「ハヤオさんが亡くなった」といえば、宮崎駿を意味してしまう。…不謹慎ながら。

重複・大量、1人で73人分の合格実績。

73人分合格、実は1人が受験・大阪の私立校、優秀な生徒に依頼 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070720STXKF052720072007.html

 確かに高校の受験実績の「~人」って、案外一部の生徒の実績だったりしますもんね。これを学校側が組織的に行っているのは、面白いことです。
 開成高校とかでやると、全校生以上合格者が出て、もっと面白いことになるかもしれません。すでに開成だとこうなっているのかもしれませんが。

2007年7月20日金曜日

人材

私の高校の先生はこう言った。

「私が見て来た人の中で、多くの人間が堕ちている。私が人材と思ったうちの半分は女で堕ちた。
残りのうちもう半分は金で堕ちた。残りのさらに半分は仕事で堕ちた。」

人材は数少ない。まして学園を出てから人材として、人生の終までいられる人はかなり少ない。

皆がやっているなら、追い風なら誰でも戦える。ただひとり、逆風で戦えるのは数少ない。

自分も師弟を貫いて行きたい。

2007年7月19日木曜日

甘え

 自分は、ひたすら甘ちゃんだと思う。少しのことで、「自分はすごい」と思い、少しのことですぐに落ち込んでしまう。『タイゾー化する子どもたち』で原田武夫が嘆いた若者になりつつあるようだ。
 甘えを排するにはどうするか。強き一念を定めることである。自分はこれをやるのだ、と強く決意することである。
 

院のあと

 大学院に行ったあと、どうするか。道は、3つ考えた。

 1、教師になる。
 2、教授になる。
 3、国家1種をとり、文科省に入る。

 1以外の2と3は、かなり難しい。教師になれる数と、教授や文科役人になる定員は限られているからだ。他に家庭裁判所調査官というものもある。僕は一体何をすべきなのか。

大学院に、何故いきたいのか。

 教育に関する本は非常に多い。しかし、どこにも「教育とは~~だ」との、明快な答えはない。教育において、長井秀和のネタは成立しないのだ。間違いはたくさんある。

 教育、教育、教育。たしか、ブレア首相の就任演説も教育の連呼だったらしい。答えはよく分からない。それでも、延々と答えを求め続けるしかない。教育とは、そういうものかもしれない。それなのに、私は大学院に行きたいと考えている。何のために? 教育について考えるため? 教育の定義づけのため? よくは分からない。しかし、ただ研究したい。学びたい。深めたい。何か教育学上で、自分の努力を貢献したい。教育について、専門的な立場から話をできる人間になりたい。高等教育を受ける以上、受けられなかった人たちに恩返しをしたい。

 いろいろ、深めていきたい。

人のありがたさ

 一人暮らしをすると、人のありがたさがよく分かる。特にTVもないと、人のありがたみがよく分かる。
 究極の暇つぶしの道具は、他者である。未知の存在、どこまで掘っていっても、完全に相手をすべて分かってしまうことはない。人生経験がまるで違うのだ。どこまでいっても、完全には分かり合えない。しかし、そこが人付き合いのいいところである。

アマラとカマラ

 教育学の本に必ず出てくる、アマラとカマラ。インドで発見された、いわゆる「オオカミ少女」。アマラとカマラは、狼に育てられたらしい。しかし、本当のところ、よく分かっていない。狼の乳には人間には消化不良なものがあるから、らしい。

 真実が分かるたび、ロマンがなくなる気がする。

 でも、原作だとアマラとカマラの「母親」たるメスオオカミや他のオオカミの子どもたちは、射殺されちゃってるんですよね。これって、本当にいいの? こう思ってしまいます。

 原作にある写真。何故かアマラとカマラは、ふんどしをしている。当時のインドの風習なんでしょうか。

本が読めない!

 どうしようもなく、本が読めなくなるときがある。めがねの度があっていないのか、疲労困憊なのか、理由もなくそうなっているのか、よく分からない。しかし、いま私は当にその状態にある。
 理由はなんだろうか。3点思いつく。
 1点目、テスト前だから。期限が近づくほど、何故か勉強したくなくなるときはある。
 2点目、ダンテの『神曲』を読んだから。分からなさ過ぎて、本を読む感動が沸かなくなったから。
 3点目、頭の中がマンネリズムに陥ったから。私の読む本は教育に関するものが多い。そのため、頭脳の中がいっぱいいっぱいになっているのではないか。
 
 こういう時は、量が少ないのに、一冊の本の形式をきちっともっている、中谷彰宏の自己啓発本がいい。
 中谷彰宏の本は、何もしない価値、何度も同じものを見る価値など、近代思想が取りこぼしてきたものを再評価する本が多いような気がする。いわば、童話『モモ』的価値といえよう。ポストモダン的発想といえなくもない。睡眠時間を削る、という表題の本がはやる時期に「やっぱり寝るほうがいいよ」といったり、「早くしなきゃ、早くしなきゃ」とあせる人に、「集中力をつけるには意識的にゆっくり動かなきゃ」と諭す。うーん、これはすごいことだ。

 早く、本を読む生活に復帰したい。ちなみに今日私は『神曲』の地獄編、読了しました。すごい本です。ソクラテスやプラトンが地獄にいるんです。それも、神を信仰しなかったために。当時のローマ教皇も地獄に落としています。聖物売買の咎で。なんともすごい本です。大学時代に読めて、よかったと思います。余り理解は及びませんでしたが。

専門書を捨てよ、教育の場に出よ

 教育ボランティアで、ある高校の寮のお手伝いをしている。男なのに、寮母という立場である。なかなか、楽しく、かつ大変な仕事である。
 教育って、結局は人と人とのかかわりによってできるもの。教育学の専門書では見えてこないものである。

 教師になりたい学生はたくさんいる。熱意溢れる人たちもいることは、私の友人を見ていても思う。その学生たちは、すぐに何らかの形で教育に関わったほうがいい。より深く、より本質を突いて学ぶことができる。どんな大人も、子どものカリスマティックアダルトになれる、との言葉がある。自分でしかかかわれない子どもは必ずいるのである。だとすれば、目の前の子どもに、私たち大人はかかわりを持っていくべきである。

 モモは村人の話をひたすら寄り添って、聞いていった。教育は促成栽培ではないので、モモの視点を忘れず、関わっていくべきである。教職に志す人たちには、この視点で関わっていただきたいと思う。

やる気がしない。

 何か、非常にやる気がしない。どうしてだろうか。
 テスト前の喧騒、一人暮らしの静けさ。何かしないといけないのであるが、何をすべきか分からない。「旅人よ/いづこより来たりて/いづこへいかんとするか」との言葉がある。人は自由すぎるといろいろ迷ってしまうのではないか。そう思う今日この頃である。

2007年7月17日火曜日

教育とは

教育とは夢だ。

教育とは未来を作ることだ。

しかし教育は権力だ。

教育は人のコントロールの異名だ。

教育は洗脳だ。

おまけに教育は無力だ。

それでも
教師は教育を信じるしかない。

教育は無限の可能性を持っている。しかしそれもうまく働く時のみだ。

人権侵害と
洗脳の狭間、間一髪の所にあるもの

それが教育であるのだ。

研究室でも
会議室にも
教育はない

あるのは
教師と生徒
親と子ども
人と人が出会うところ。

人と人との交わり、
それが教育でもある。

ともあれ
教育とは何か
との問いは
答えることができぬほど
難しい

それでも僕は
その答えを探したい

待つこと・見つめること

 最近、「待つ」こと・「見つめる」ことの重要性に気づいてきた。 
 すべてを教えるのは、よいことではない場合がある。相手が学ぼうとしていないときに教えるのはかわいそうだ。子どもが失敗し、そこから学ぶのを防いでも意味はない。齋藤孝は自著の中で、ハンマー投げの室伏の父は、じっと彼の投げを見つめ、ついに何も言わない日がいつもであり、ためにボソッと「よくなった」といったらしい。教師はついつい教えたがるが、それで自分と同じレベルにはできても、自分以上の人材にすることができない。
  子どもは未来からの留学生である。前に田中さんもいっていたように、教師以上に実力のある子ども・知識のある子どももいる。その子たちに子どもだましの知識を与えることはできない。
 子どもたちは、自分の存在に関わらず、存在する。教師が存在しなくても、生徒は存在する。だとしたら、自分が彼らを拘束してしまっては、彼らの可能性を閉ざすことになる。  言うべきことはきちっといい、相手のいい点は自由に伸ばすこと。これが必要なのだと思う。

2007年7月3日火曜日

パルシステムの牛はずばりドナドナだ!
配送トラックに描かれた絵は人々に助けをもとめているんだ!

2007年7月2日月曜日

松屋のCMには外国人をつかわない。

2007年6月25日月曜日

ワセダから一字ぬくと、和田になるんだ。スーフリの影はまだ残っているぞ、きをつけろ!
慶応大学では脱亜論は語られないんだ。間違いない。
blogの方針が決まらない。俺の好きな長井秀和風に徒然なるままにかいていこうか?
困ったら人との会話、携帯か車の話をしろ!
面倒臭い、を乗り越えろ!

2007年6月22日金曜日

6畳1間の大豪邸。

立川のある小学校です。

自分の学校では、「足で踏むな」だったはず…

所変わればやり方変わる

でしょうか?

うちの大学の証明書発行機です。

事実上、「無修正」なのは分かりますが、ちょっと人をおちょくった表現といえないことはないんじゃないでしょうか。